2007年8月24日 (金)

140 マーケットオフィスとの闘い 1

突然マーケットオフィスから二ページの手紙が届いた。持ってきたのはブライアンというがっしりとした体格のセキュリティマンで、警察官を思わせる制服に身を包み、マーケットでは「私は治安の長だ」とのでかい態度をしている。ブライアンは手渡す時、私が先週土曜日に一日中、駐車違反をしたと言いながら、威圧的な目で睨んだ。おかしいなと思いながら手紙に書いてある私の車のレジナンバー(登録番号)を確かめてみると私の車ではなかった。早速その手紙を持って事務所へのり込んだ。マネージャーのジョンが出てきたが詫びの言葉すらなかった。

私たちストールホルダーはマーケット近くのパーキング場に駐車してはならないことになっている。お客さんの車を第一に考えているからで、日本ではそれはごく自然のことである。それでかなり離れた距離、歩いて五分程の草むらの中がストールホルダー専用の駐車場となっていて、いつもここまで車を持っていく。このようにお客さん優先の思考法はこのオーストラリアでは非常に珍しい。通常大病院とか医院、ゴルフ場とかの公共施設では医者とか幹部連中には職場から一番近い場所を与えられ、独占しているのが普通で、その場所には絶対駐車しないようにとのサインが貼られている。そしてその隣が身障者専用となっている。

このカラーラマーケットでは「何時行っても駐車場所がない」と、お客さんからいく度となく苦情があった。それでこのようになって、これが本来の客に対するサービス精神で、あたりまえのことである。そこでオフィスとしてストールホルダーに対し荷物の積み下ろし以外と3時まで駐車は厳禁、もし見つかれば200ドルの罰金を取ることにしたのである。そして車のナンバーをチェックする係りをわざわざ雇って徹底的にストールホルダーの番号調べをしたのだった。私たちに車のレジナンバーを確かめに来るのではなく、どのようにして調べたのか全く分からない。そんな簡単な調査では間違って当然といえる。

その二週間後にセキュリティのブライアンが又もマネージャーからの手紙を持ってやって来た。今回は私の車登録番号と一致していた。再び事務所へ苦情を言いに行くとマネージャーのジョンが奥から出てきた。そして先週の土曜日、私が車を一時頃に駐車していたというのであった。「それは3時過ぎの間違いで、その後、修理の品物を車に積み込み帰宅した。その時、340分頃であった」と言ったら、ジョンは手をブルブル震わせて怒り出した。彼がなぜそんなに怒り出すのか訳が分からない。「それは何かの間違いである。それを見たのは一体誰なのか?」と尋ねたがはっきり答えない。「とにかくそれを見た人物に会わせて欲しい」と言ってオフィスを後にした。「どうも先々週からおかしな事ばかりが起きる」と思いながらも、その原因は分からなかった。因みにお客の少ない時にはマーケット終了時間の午後4時以前に閉店する店舗は非常に多く、それが原因の苦情ではない。

次の日曜日、マネージャーのジョンとセキュリティのブライアンが私の店へやって来て、再び先週の一件を持ち出した。私はすっかり忘れていたのである。そしてブライアンが「わしが一時頃、あなたの車を見た」と言い出したのである。「それならどうして、その日のその時刻、私に注意を促しに来なかったのか?あなたはそれが仕事ではないのか」と言ったら、彼は何も答えなかった。

ジョンは興奮して手を振るい始めた。彼はパーキンソン病だと聞いたことがあったが、かなりひどい状態である。まだ私よりずっと若いのに残念なことだ。

「私には証人がある」と言って、二人を私が懇意にしている香料、キャンドル屋へと連れて行った。過去ブログでも紹介した姉妹、斜め向かいで店をやっているが、二人はタバコが好きで一時間ごとに外へ喫煙に行くが、たまたまその日、私が3時過ぎに駐車している現場を見ていたのであった。ところが彼女たち、ジョンとブライアンを連れて行くと、「私たちは知らない」と言い出したのである。蛇に睨まれた小動物とはこのことで、ここで私に味方をすると、後でジョンからどんな仕打ちをされるか分からないとの恐怖心が彼女たちの脳裏をよぎったのである。それでもうこれ以上彼女たちを巻き込むのを止めることにした。しかしこの一件については、私は決して譲らかった。ブライアンもマーケットの長であるジョンから頼み込まれ、仕方なく嘘をついたのである。

ちょうど一ヶ月前にこんな出来事があった。土曜の朝、何時ものようにガラージセール巡りを終え、マーケットに着いたのは午前8時前、駐車場のドライブウエイを進んでいると突然大型バンのタクシーが私の車の前方で右折、そしてそのドライバーは突然バンを停め、バス乗車係りと喋り出したのである。前方にはココスの木があって、私の車は完全に前後左右動けなくなってしまったのである。しばらく待ったが、おしゃべりは延々と続いたので、クラクションを鳴らして促したら、やっとバンを左に寄せた。この国では男女共おしゃべりを楽しむ人が多い。職人さんでも仕事をほったらかしておしゃべりをする。それが延々と続き、このタクシードライバーのようにトランス脂肪酸でいっぱい膨らんだお腹を抱え、息をするにもしんどそうな太った男に限って、人の事を全く気にしないのである。

以前、近くのショッピングセンターKマートで買い物をした時のことである。レジを待っていると私の番になってから突然責任者らしき中年女性がレジの女の子と話し出した。それが長すぎるので中年女性に言ってやった。「話は私を済ましてからにして欲しい。待っているのは私一人だ」と言ったら、彼女は私を睨み付けた。駄目でも、時には嫌われようが言わねばならないこともある。将来彼女はこの出来事を思い出すことだろう。私はそれで十分である。

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2007年6月25日 (月)

133 有名デパートで働く 2

[128有名デパートで働くの続き]

清掃スタッフはスーパーバイザーのキムを含めて7人、この人数で4階建てデパートすべての掃除をする。時間が3時間と決められているので、ゆっくりやっていると間に合わない、各所を大急ぎで済まし、次の場所へと移動して行く。

私は4階フロアー全部と3階フロアーの半分を任された。4階にはホワイトグッズ(冷蔵庫、洗濯機、エアコン、掃除機等)売り場、ベッド、応接セット等の家具売り場、子供服と靴、婦人服、おもちゃ売り場にレストランがある。

掃除道具はモップとバケツ、掃除機にチリトリとほうき、それにダスター(楕円形のほこり収集モップ)それらすべてをトローリー(手押し車)に乗せて4階のレストランまで持っていき、ここを基点として道具類を選びながら、各所の掃除をしていくのだが、信じられない程の大きさである。

スーパーバイザーのキムは遠慮しながら、マイヤースタッフのダイニングルームも追加して掃除するようにと、私をその場所まで連れて行った。この部屋は水道に流し台、お茶とコーヒー用湯沸かし器、クッキング用コンロだけが付いていないキッチンと100平方メートル程のダイニングルームになっている。デパートの全従業員が昼食を取ったり、休憩の時ここへ来てコーヒーを飲んだりするところである。客の来る売り場では食事が出来ない、そこで昼時になったら交代で、ここへやって来て食事をするのである。

「ここは子供連れも食べにくるのか?」と聞くと「いや来ない。大人だけだ」と不思議そうな顔をした。「ブラディ、ダーティ、イズント イット」と言うと、「オーイエス」と小声で答えた。「ここは毎日掃除をしているのか?」と聞くと、彼女は何も言わなかった。テーブルの下はお菓子のくずが周囲一杯にちらかり、食べる時、口からこぼれ落ちたと言うより、子供が、いたずらで、手で潰して、撒き散らした感じである。

ガラス張りになった8畳程のテレビ付部屋が別にあり、そこに応接セットが周囲にずらっと並べて置かれているが、そこはダイニングテーブルの下よりもっと汚かった。応接セットを移動させると、食べ残しも出てきた。この部屋にはゴミ箱がない、わざわざキッチンまで捨てに行くのが面倒なのであろう、ソファーの隙間に残飯がいっぱい詰め込まれていた。

私はゴミが隠れるように、移動させた椅子を再び元に戻した。「ここはどのように掃除するのか?」と聞くと、「掃除機をかけるのは週に一度位、時間に余裕がないので、ふだんはスクーピングだけで良い」(スクーピングとは、長い柄のあるチリトリとほうきで、大きなゴミだけをかき集める簡素な掃除法)それにしてもオーストラリアで一流のデパートで働く人達のマナーの悪さにはびっくりした。とても日本では考えられない光景である。

勤め出して3日後、このスクーピングをエスカレーター近くでやっていると、ネクタイにスーツ姿、45歳くらいの大柄な男性が近づいて来た。そして「掃除機は使わないのか?」と聞く、「2日前に掃除機をかけた、今日は時間の都合で、これしか出来ない。貴方は一体誰なのか。このデパートのマネージャー(支配人)か?」と尋ねると「そうだ」と答えた。

言いたい事があれば、スーパーバイザーのキムに直接言えば良いのである。どうして一清掃員である私に言うのか、「さては以前、お互いに気まずいことでもあったのかな?」と感じた。この話を当日シフトが同じだった先輩のマットに話したら、たちまちキムにも伝わった。

そこでキムは「マネージャーの出勤、退社時間にはエスカレーター付近でのスクーピングを止めるように」とスタッフ全員に告げた。なんだか変である、「どうして正々堂々と仕事をしないのだろうか?」との疑問だが、この理由がだんだん分かってきたのである。

10年近く勤めている同僚に、ソビエト崩壊前は共産圏、アレキサンダー大王でも有名なマケドニア出身者がいた。 鋭い目付と顔はスパイ映画でKGBを連想させた。名はゴードンと言って、35歳である。魚釣りが大好きで、それ以外の話はあまりしたことはなかったが、あるとき、彼が私の側へ寄ってきて小声で、「5年前には清掃スタッフが14名もいたが、今は半分となってしまった。当時床などはピカピカだったよ」と言った。「経費削減のための人員を減らしか?」と聞くと、「そのとうりだ」と答えた。

マイヤーは清掃業務を、全国ネットでやっている大手の会社、テンポに年間契約で委託させていた。ところが、かなり経費がかかっていることに気付き、数年前の契約から、突然半分に削減してきたのである。しかたなくテンポも人数を減らさざるを得なくなった。

その時スーパーバイザーのキムと、マネージャーが作業の範囲及び内容等で、かなり言い争ったに違いない。それ以来、二人は口をきかなくなってしまったのではないか、エレベーターでお互いが乗り合わしても、顔をぷっと横に向けたまま、挨拶一つしたことがない、それは、それはひどい状態である。会社が別々なので上下関係もない、もっともこの国の企業は縦割り組織でないから、マネージャーとは言え、一サラリーマンにすぎなく、一般社員もぺこぺこはしない。それにしても、このマネージャー、掃除なんかの小さな事に口を出すより、デパートの売り上げをもっと増やす方法を考え、ゆとりのある必要経費を支出して欲しいものである。

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2006年11月13日 (月)

61 国民性

[国民性]

 この国の人はミエを張らない。 人を気にせず、自分の収入に合った生活を営んでいる。勤め先の状況が不安定で、転職したり、又無職になったりする場合が多いからであろう。

学校とか国立病院の先生、政府機関の職員でも、予算の削減で時間数のカットとか人員整理が簡単に行われ、時給の高い人程、その対象となり易い。 今は待遇が良くても、それがずっと続く補償はないのだ。 昨日までは裕福、今日からは切詰めた生活となってしまうことがある。 この国は組合が強いのに、何故そうなるのか分らない。

 スーパーマーケットの食品コーナーには一流メーカーの高い製品と自店製の半額以下の品物が並べられていて、それらばかりを買っても気にならない。 家の郵便受けには、毎週無料の新聞とか、ビラが入っていて、超安値の広告を出している。 期限が過ぎると、元の値段に戻るので、それを買い求めて走るのが、ここでの一般的な生活である。

 人の事は気にしないし、干渉もしないが、もしも自分達が迷惑になるようなことが起きると、たとえ親しい友人でも、仲の良い隣近所でも、態度をがらりと変えて、遠虜せずに苦情を言う、日本の社会では言い難い事柄でも、ずけずけと言うのである。

 特に自分の家の近辺での環境問題に多い。 例えば、前に述べた、私の犬が吠えて喧しいとか、庭の木の枝がはみ出してきたとか、隣接する木の根っ子が塀を壊したとかである。

 ある人が、商売上の古い機械や部品類を沢山庭に置いていたら、近所から苦情がきて、当局からは罰金を請求された。 庭の芝生を刈らずに放っていたら、頼みもしないのに芝刈り屋が来て刈っていった。 後日、市役所から請求書が送られてきた。

 またプールのある家では、薬品を入れ、一日に数時間自動的にポンプを作動、水の浄化をさせている。 そのモーターが故障して放置、水藻が現われ青くなりだした。 それが当局に見付かり不衛生として500ドルの罰金を払わされた。

 私の左隣の家、前庭に大きな木があった。 風が吹くと葉っぱが周辺の庭先とか道に散乱していた。 近所の代表者が各家を訪れ署名を頼みにきて、とうとう、その大木を切り倒してしまった。 自然保護で自分の庭の木でも勝手に切ることは出来ないが、著名嘆願すれば市当局も仕方なく許可を出した。 実に強大な住民パワーだが、自宅の庭や周辺さえ、きれいにしていれば、何一つ問題は起きないのである。

 私の庭にも木が数本あり、毎年一回枝落としをする。 木が大きくなると枯れ葉がトユを塞ぐ、根がはってコンクリート路とか家のブリック壁や塀を壊してしまう。 それで余り大きくならないようにしている。 でもすでに手遅れになっているのが何本かある。 毎回、高さが8メートル近くある木の上によじ登って枝を切り落とす。

 この地域は年中暖かく適当な雨量もあるので木の成長は驚く程早い。 一年で小型トレーラーに六杯もでる。  その枝葉を積込んでいると、二軒隣の住人夫妻が通りかかった。ここの家には犬が三匹もいて朝夕いつも夫婦揃って散歩させている。 挨拶をかわした後、御主人が言った。 「どんな種類の木でもトラブルが付きもの、うちの庭には一切木を植えないことにしている。 トラブルを引き起こすのは女性と同じだ」 側に奥さんがいるのに一言多いのでは? と思った瞬間、彼女の肘鉄が彼を襲っていた。

ゴミの収集は週に一回火曜の朝でタンクローリーのような大型車がやってくる。 各家に市から大人が二人入れる程の特製プラスチックギャベッジビン(ゴミ箱)が支給されていて、これを道路際まで出して置くと、車が近付き装置されたロボットの腕が伸びてきて持ち上げ圧縮荷台へとほりこみ、元の場所へ戻しながら回収されていく。 以前は助手がいた。 今は経費の節減か運転手一人でバックミラーを見ながらこの操作をしている。 このビンに枝葉を詰め込んでもよいが多すぎると、直接ゴミ捨て場へ持って行く。

 近くのゴルフ場の側にそれがある。 この地域では焼却せず埋立て用となる。 十数年前この辺りは低地で湿地帯だった。 ゴミの上に土を盛りブルトーダーでならして公園とスポーツコンプレックス(総合施設)が出来ている。 今はもう埋め立ては完了、その名残でゴミ捨て場の中継所が出来ている。 小高い丘が作られ車でのぼって行くと鉄製の大きなトラックの荷台が三基置かれていて、その中へ投げ入れ満杯になると特殊な車がやってきて、どこかへ持ち去っていく。 生ゴミが少ないためか清潔なゴミ捨て場である。 係員がいて、ゴミの種類のチェックと指示を出していた。 木の枝葉は場所が別でそこにも係員がいて機械で紛々にしトラックの荷台へと自動的に詰込まれていく。 リサイクルとして何かに再利用されるのである。 ここはリゾート地、美観維持からかハウスホールダー(家の住人)にはゴミ捨て代は無料である。 建築業とかガーデン業者ならば、小型トレーラー一回に付き、七ドル徴収されている。 私の場合、何時も量が多いのに何の質問もしない。 きっと顔付きや風体が業者とは見えないからであろう。

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2006年11月10日 (金)

60 必要経費

立てカンバンを出した地点の道路で交通事故があった。 そう言えば、昼間「ドカン」と大きな音がした。 私は忙しくて見に行けなかったが、近所の人は、「人命は大丈夫、でもかなりの大事故で、ポリスが来て交通整理をし、無理に迂回させられ、この道へ入れなかった車もいて、事故さえなければもっと人が来ていただろう」と教えてくれた。

 もしかして、カンバンを見ながら、よそみ運転をして事故を起こしたとも考えられる。あとで、ポリスから厳重注意があるかも知れないと思った。

 トレイディングポストという新聞がある。 主に個人を対象に中古品の売買を案内している。 毎週一回、木曜日に発行され、百ページの紙面に、小さな字でびっしり載せられている。 品物の種類は豊富で幼児のもちゃから軽飛行機まである。 広告代は五行前後で品物の売値によって決まり、たとえば、二百二十六ドルから三百ドルまでの場合は十ドルとなっている。(1996年頃) これはガラージセールよりも高く売れるし、広告の影響も非常に大きい。 でもクィーンズランド州版で広範囲となっている為、自宅の周辺とか、車での至近距離に限定される。 私は車で一時間前後なら、しばしば見に行って気に入ったオーディオ製品があると買った。

 今度、私は売る側となり、ゴルフ用具やレストランの業務用品を多数売った。 ほぼ買値の半分近い価格で売れるから、セカンドハンドショプヘ持って行くよりもずっと良かった。 引合いは電話待ちで、日数の掛かる場合もあるが、必ず売れた。 品物によっては、ガラージセールで買った品物を又売りし、その差額を儲ける人もいる。

[必要経費]

 私は、レストランを廃業して一年以上になるが、何のアルバイトもしていない。 近々、いろんな請求書がやってくる。 このガラージセールの売上げで、すべて支払いが出来そうである。

 自宅があると経費がかかる。 先ず市役所からのシティレイツ、これは土地の評価額に利率を掛けた金額、空間保持税、水道料金、下水料金、ゴミ収集料、それに消防署費の合計である。 水道はメーターが付いていて、年間に一定量が決められ、それ以上使うと超過料金を徴収される。 (2000年に計算方法が改正されたが、ほぼ同額) 各家は庭が広いので芝生や花壇に良く水をやる家庭では余分に料金がいる。 時々給水制限もあるので、敷地内にパイプを打ち込んで自家製の井戸を作る人もいるが、鉄分や有機質が多く含まれ、水を撒くとコンクリー卜が褐色になったりする。

 私の家は、建て面積が200へーベでプールは付いていない。 土地は690へーベでドライランド、(水際に面していない)普通の住居地区である。 1998年度のシティレイツは、1250ドル弱だった。 これが一月と七月の二回に別けて請求され、一ヶ月以内に払い込むと十パーセントの割引がある。 でも一年分を纏めて払っても、それ以上の割引はされない。

 電気代と電話代は三ケ月に一回請求書がきて前に述べた程度である。 車は年に一回、登録料の請求がきて、普通の車種で430ドル、任意保険が300ドル少々、家の火災保険が350ドル、それに自分自身の保険である。(1998年度)

 家や庭の手入れはすべて自分でするから経費はかからない。 又、私は酒もタバコもやらないし、雑費や食費にも余りお金を使わない。 あとは車の修理費とガソリン代だが、これが以外と高く付くのである。

 ガソリンの値段は、1998年12月、1リットルがレギュラー(無鉛)で60セント前後、スーパー(鉛化)はそれより5セント割高である。 環境問題で、それが必要な車種の締出しと思われる。 ディーデルオイルには重税が掛けられレギュラーガソリンよりも高い時がある。 それらの価格は一週間に二、三度変わったりする。 多分仕入れ値の変動だと思うが、何故そうするのか分らない。 ひどい時には、1リットル当り、10セントの差があり、しかも一日の午前と午後の違いである。 したがって、オーストラリア人は、何時もガソリンスタンドに掲載された価格を横目で見ながら車を運転している。

1998年の初旬、ガソリンの基本料金の値上げを国の法廷が決定した。 でもクィーンズランド州だけはそれに従わなかった。 それでどの州よりも安くなっている。 不思議な国柄である。 (昨今の世界的な原油高騰で1リットル当り1ドル10セント前後)

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2006年11月 3日 (金)

57 自然がいっぱい

[野生動Photo_41物の保護]

 オーストラリアでは、ほとんどの野生動物が法律で保護されている。RSPCA言う動物愛護団体があって、動物に悪戯をしたり、殺したりすると訴えられ、罰せられたりする。

 オーストラリアの人々は、子供の頃から、動物を大切にするようにしつけられ、育っている。 それで動物の方でも、それが分っているのだろうか? 時には非常に厚かましいのである。

 昔、ヒッチコック監督の「鳥」と言う、映画があった。 鳥が集団で人間を襲う怖い物語で、身の毛も寄立つ思いがした。 この国では、それが実際にあるのだ。

 私の住む地区で自転車に乗っている少年が逃げ回っていた。 彼の頭上を見ると、一匹の鳥が攻撃中であった。 車の通行量の激しい道路で、少年は上を見詰め、鳥を避けながら、一生懸命になってペダルを踏んでいた。 交通事故の方がもっと危険である。

 ゴルフ場でもそんな光景を見掛ける。 私も何度か襲われたことがあった。 大きな木の下を通ると、突然背後から攻撃してくる。 不意にやって来るので、びっくりする。 近くの木の上に巣があるのだ。 ゴルフ場には立てカンバンをして注意を呼掛けていた。

 私の庭にも、この鳥が餌捜しにやってくる。 芝生に座って「来い、来い」と遠くから手招きをして呼んでみた。 そうすると側まで近寄って来るのだ。 良く見ると、ピンセットのような鋭いくちばしを持っていた。 それで突つかれたら血が出そうだ。 「危ない」と感じ、私はさっと逃げた。

 鳥の通称名はマグパイと言う、カラスに似た鳥で黒地に所々白い紋様がある。 木やテレビのアンテナに止まって、節を付け、口笛を吹くような、きれいな声で鳴く。 毎年九月頃に雛がかえり、その時期に襲ってくる。 常に背後からやってくるので、後ろに大きな目を書いた野球帽が売られている。 でもその効力の程は分らない。

[自然いっぱいのゴルフ場]

 くちばしと目の縁が黄色い、モズを大きくした、ノイズィマイナーと呼ばれる鳥がいる。 これも同時期に巣作りを始める。 ゴルフバッグに止まって糸屑を欲しがったりして非常にフレンドリーだが、雛がかえると一変する。 巣の下を通ると、神風特攻隊のように正面から目を狙って突進してくる。 これは油断が出来ず、もし集団で襲ってきたら、それこそ映画の「鳥」のシーンとなる。

 季節に関係なく雛を連れているグース。 カモの一種で多い時には十五匹もいて、雄と雌がしっかりガードしながら歩いている。 かわいいので近寄る、側を通るだけでも、片方の親が目を釣り上げ、物凄く怖い顔をして攻撃してくる。 私は、誰も見ていないのを幸いに、バギーを付き出して威かしてやった。 ところがそれでも向かって来るのだ。 何の武器も持たない鳥なのに子供がいると強い。 その勢いに負けてこちらが退散した。

 マスクドラプウィングと言う、ほっそりした鶏のような鳥などは、フェアーウェイに卵を生んで抱いている。 珍しいので友人が見に行ったら、顔を徹底的に襲われ、逃げても追掛けて来た。 彼は、鳥に耳を足で蹴られ、けがをしてしまった。 ゴルフ場側でも、この巣近くに立て札を建て、そこだけは芝刈りをしていない。 もし、その中にボールが入ったら、試合中、どんなルールが適用されるのか、私は、まだ聞いていない。

 他にも数十種類の鳥が生息していて、このゴルフ場は野鳥の宝庫である。 住宅地域の真中にありながら、大木が繁り薮林となったジャングル地帯が数箇所残されている。

 私は、レストランの仕事上、朝一番、夜明けと共にスタートし、一人で回ることが多かった。 私以外前方にプレイヤーはいない。 そんな時、太い尻尾の狐が遠くから、私の下手なゴルフを不思議そうに、じつと見詰めていた。 ジャングルの中にファミリーが住んでいる。 大昔、オーストラリア大陸には狐は生息していなかった。 今から、百五十年程前、誰かがヨーロッパから連れて来て放したそうだ。 それが増え過ぎ、他の野生動物を食い殺すので害獣として扱われている。

 ゴルフ場は自然がいっぱいである。 そのかわり、危険もいっぱいである。 失敗してボールを薮の中へ入れてしまったら大変だ。 毒ヘビ、毒グモ、毒ガエルの住みかである。 私は諦めて取りに行かないが、古参メンバーの中には、その中へ入って行き、自分のボール以外にも、数個拾って来る勇敢な人がいる。 まったく命がけである。( 写真左上は近くのゴルフ場 )

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2006年11月 1日 (水)

56 レクレェーション

[レクレェ-ション]

 何よりも、採取したてのブロッドワームが一番である。 私は偶然発見した。 乾いた砂の中に、長いまま入れ転がせる、ちょうど、きなこ餅を作るのようにすると、見る見る内に収縮する。 虫は体内から水分を取られまいとして、そうするのだ。 太く、短く、堅くなった虫を半分又は一匹、小さな針に付ける。 頭が付いていると指に噛み付くが、私は取らずそのまま使う、その方が、活が良いからである。

 原則として、針は小さく、餌を大きく、糸は細くする。 餌をけちって小さくし、釣り時間を長く保って楽しむよりも、短時間で大物を釣りたいからである

 餌はタダ、きれいな景色を見ながらの採取も又レクレェーションの一つなのである。 仕掛けは、いとも簡単、長さ80センチ2.7キロの糸に6号針と適当な重り、さおは安物の2.4メーターのスコープ、小型リ-ルには5キロの糸を巻いている。 針が小さいから魚はたいてい飲込んでしまうが、外れて失敗することはない。 口から糸を少し出して切り、料理の時に取り出す。 それで錆びないステンレス製の針を使う。

 これで30センチのチヌ、43センチのキスを釣り上げた。 この大物キスは珍しいので、今も冷凍保存している。 30センチ前後のキスなら数知れず釣れ、時々カレイとか、名の知れぬ魚が喰い付き退屈はしない。 ところが、たまにスティングレイ(エイ)がかかり、尻尾が危険で、これだけはいただけない。

 釣りの時刻は上げ潮三分と言われるが、ここも同じで、ブロッドワームを干潮に採取して、それから釣り出すとちょうどで、その一、二時間が最もあたりがある。 ここは気候や環境が良いので一日中釣っていても飽きないが、時間の無駄となる。

 水面は、少し風があり、小波が立っている状態が良い。 特にボートが通り過ぎた後、必ずあたりがあって大物がかかる。 カナルでは休日にボートが煩繁に往来する。 騒音で魚が逃げると思うので、喜ぶ釣り人はいない。 ところがスクリューで水を撞き混ぜると、海面下の餌が現われるのか、魚は逆に集まってくる。 そして注意力がなくなって、釣り餌に食付くのだ。 水の深度は、それ程なく、透明度があるから魚の方でも、こちらのことは見えている。 それに海水湖には餌がたくさんあって、大物になる程賢いから、人間との知恵比べである。 釣りの最中、大きな物音と共に小魚が飛び跳ねた。 かなりの大物もいるらしい。

 釣った魚に虫が付いているかも知れないと、生では食べなかった。 でも水がきれいなので最近は刺身にもする。 何故か年中、卵を持っていて脂がのっている。 煮付け、塩焼き、てんぷら、押しすし、それでも余るから友人にあげたりする。 自宅から歩いて三分、町なかの住宅地域にこんな素晴らしい自然があり、良い釣り場があったのである。

[マイト(友人)]

 ある日、私は橋の上から釣っていた。 何時もは砂地からで、出来るだけ水際に近付く、そうしないと大物が掛かった時、上げるのに困るからである。

 橋の下で若い二人が釣りをしていた。 良く見ると彼等の側にペリカンがいた。 羽を広げると1.5メートルはある。 地面にいると、よちよち歩きで人間の子供のようだ。

 二人は釣り場所を変えようと、橋の下を移動したら、ペリカンも付いてきた。 釣り糸を投げ入れた途端、そこに向かって一目散に突進した。 どうも彼らの使っている餌に興味があるらしい。 彼らは足元の砂を掴んで、何度となく投げつけて追っ払ったが、暫くすると又近付いてきた。 その繰返しで、とうとう彼等は釣りを止めて帰ってしまった。

 私にも経験がある。 何時ものように釣りをしていると、空からペリカンが舞い降りてきた。 どうやら上空から釣り人を探していたようだった。 そしてフレンドリーに近寄ってきた。 側で見ると、油紙みで作った張りぼてのようで、身体の割に目が小さく、くちばしが異様に大きい。 何となく滑稽な顔付きだ。

 私はちょうど、小さなチヌを釣り上げていた。 針を取り出したら死んでしまったので、それをやると、大きな口の中へ出し入れを始めた。 きっと大きすぎるので、魚が飲み込めないのだろうと二つに切ってやったが、やっぱり同じことをする。 どうもお腹が空いているのでなく遊んでいるようだ。 それを私の側の水中で、ガバガバと音を立てながらやるから堪らない。 これはボートのスクリューで水を撞き混ぜるのとは違う、釣り場付近の魚は皆逃げてしまうのだ。 私はペリカンに気付かれないように、そっと別の場所へ移動した。

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2006年10月30日 (月)

55 検査官

[検査官]

 ある時、私は一生懸命になって餌を採っていると、カナルの向こうからボートに乗った二人が近付いて来た。 胸に写真入りの身分証明書を付けている、当局の検査官だった。

 外海で釣りをしていて検査官の巡回を受けたこともある。 釣った魚のサイズとか数量種類のチェックであった。 岸から釣りをしていて点検を受けた人もいる。

ちなみに魚のリーガル(法定)サイズは種類によって違うが、ブリム(チヌ)やキスで二十三センチ以上、コチやテイラーで三十センチ以上、カニは甲らの直径が十五センチ以上で雄のみ、雌ガ二は絶対捕獲してはならない。 違反すると罰金を取られる。 この国の人達は小さい頃から、その教育を受けていて、しっかり守られている。

 ところで、検査官は、私が薄汚れた服装をしているのを見て不審に思ったのか、「そこで何をしているのか?」と尋ねた。 「釣りの餌を採取しています」と答えると、「その容器の中の物を見せなさい」と言った。 私は言われたようにすると、「これはエビでもなくヤビー(シャコエビ)でもなし」と首をかしげた。 「移動した石は、元通りにしておきます」と言うと「そこまでしなくても良い」と言って、帰っていった。

 この町はリゾートなので、かなり大目に見て規制が緩いのかも知れない。 でも私は退けた石を元に戻した。 もちろん、それは、次回の為だった。

[餌のいろいろ]

 人が大勢いる海岸へ行くと、金属探知機で落とした小銭等を捜している人を見掛ける。又、潮が引いた時、水際で足をこねて砂を掘っている人、これは、あさり貝の一種を探しているのだ。 これはキス釣りの餌にもなるが、砂出しをして、みそ汁に入れるとうまい。

 その同じ場所で、物の入った袋を引きずりながら、何か捜している青年がいた。 私は何をしているのか不思議に思い、じっと立止まって見ていた。 左手に一匹魚を持ち、濡れた砂の上に置いた。 すると何かが首を出した。 彼はすかさず指で摘まみ上げた。 それは一メートル近くのサンドワームだった。 彼は腰に付けた容器の中へ入れると、又同じように袋を引きずり始めた。 袋は目の細かい網で、その中に腐りかけの魚がどっさり入っていた。 それを砂地で擦ると、サンドワームが顔を覗かせる。 ところがすぐに首を引込めるので、その場所を確認し、もう一度手に持った魚で誘い出すのだ。

 彼の腰の容器には、かなりのサンドワームが入っている様子だった。 さては釣り具屋さんへ売りに行くつもりである。 このアイデア、最初誰が考え出したのであろうか?

 ここで釣りをしている人の側へ行き餌を見ると、冷棟エビ、鰯の切り身、食パン、ハムとかソーセージ、ベーコンや牛肉まで使っている。 そして自分の餌が一番良いと思っているのだ。 釣り人も上級者になると活餌を使って大物を狙う。 私の釣っている側で投網を打ち小魚を取り出した。 人の事はまったく気にならないようだ。

 カナルの砂地を掘ると袋虫が出て来る。 ステンレス製のポンプで水の引いた川底から、砂を吸込み吹出すとゴカイの一種が取れる。 これもキス釣りに良い餌となる。 朝早くカナルの岸辺で小エビをすくっている人もいた。

 毎年夏場の十二月から二月に掛けて、橋の上からサビキを下ろすと、ここでヘレンと呼ばれている小魚が釣れる。 切り身にして使うとか、又一匹を活餌にすると、30センチ級のチヌやシマアジ、40センチのコチが釣れる。

 私もいろんな餌を試してみた。 食パンの柔らかい部分を指で摘まんで、小さな団子にし針に付けた。 水に入れると小魚が集まってきてすぐになくなる。 これは餌の取替えが忙しすぎた。 でもこれに浮きをつけるとボラが釣れる。 ボラは食パンが大好物だったのである。

 筋肉を小さく切って使った。 これなら針から外れない。 突然変な引き方をしたので上げてみたら、大きなサンドクラブ(カニ)が上がってきた。 これはどの獲物より美味しい。 今度はリ-ルを軽く巻いてみた。 「カツン」、胸がどきどきし、早く上げようと焦る。 かなりの大物らしい、糸が切れそうだ。 やっと上がってきた。 体長が40センチもあるコチだった。 コチは冷凍の小魚でも釣れるが、リールを巻いて動かす必要がある。

ベーコンを餌にしている人がいた。 彼、言わく、「ベーコンは臭いが強いので、どんな魚も集まってきて良く釣れる」との事である。 魚がそんなに臭覚が良いとは知らなかった。 彼は目の前で良いサイズのチヌやコチを釣り上げた。

 私のガーデンにカタツムリとか、土の中にミミズや名の知れぬ虫がいる。 それらも使ってみたが、水中へ入れるとすぐに死んでしまって良い活餌とはならなかった。

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2006年10月27日 (金)

54 魚釣り

ここで鯛を釣るには鰯の切り身を使う。 仕掛けは簡単、二つの針を使ったら、一荷で喰付いてきた。 でも船酔いの苦しみは釣りを楽しんでいる所ではない。 それでもっぱら、岸釣りが専門となった。 随分、釣りのハシゴをした。 私の住んでいる場所から五十キロメートル圏内で南北にある釣り場ならほとんど知っている。 ビーチ釣り、磯釣り、川釣り、運河釣り等である。

 ビーチ釣りでは、鰯の切り身を餌にコチ、チヌ、シマアジが喰い付く。 どのビ-チも遠浅なので、長いさおを使って遠くへ投げ入れる必要がある。 腰までのゴム靴ズボンを履いて波を浴びながら、豪快な釣りをしている人を見掛ける。 冬期に体長四十センチ程、脂がのって美味しいテイラー(すずきに似た魚)が釣れる。 ギャグホック3連針に鰯をまるごと付けるが、これは一過性の魚、時には入れ喰いで、布切れにでも喰い付く。 しかし三十分程で他の場所へ移動してしまう。

 虫エサに代え、近くのバンク(深み)へ投げ入れると二十五センチ前後のキスが釣れる。この場合、短いさおの方が扱い易い。

 波の静かな磯とか、湾岸の深みで青コケを餌に浮きを使うと同サイズのブラックフィッシュ(黒チヌ)が釣れる。 透き通った水面から魚を見ながらの釣りである。

 車で三十分南下、州境を越え、しばらく走ると、ポッツヴィルと言う海岸に着く。  ここは大きく磯が広がっていて、干潮に行くと、サザエが拾え、小粒だが壷焼きにして食べると美味しい。

 近くの岩場で、若いオーストラリアンが波間に向かって、しきりに糸を投げ入れていた。 暫くすると銀色の名の知れぬ魚が引掛けられた。 彼の目には水中の魚が見えているのだった。

 川釣り、運河釣りでは、冷凍エビや虫餌で、チヌ、キス、コチ、シマアジ、銀色の鯛、さゆり、カニ等が釣れる。 運河と言ってもボート遊びを目的にしたもので海に繋がっていて干潮、満潮があり、すべて海の魚ばかりである。 近くに大きな海水湖があって、そこで生れたものと思われる小魚の大群を時々見掛ける。 私の住む地域では、ウォーターフロントと呼ばれ、裏庭が川とか運河に面し、ジェッティ(桟橋)があって豪華なボートを繋留した家が多い。 土地開発するとき、運河を造り水に面した土地を分譲すると高く売れるのである。

 この国の人達は、若い頃都会で働き、しっかりお金を貯め、リタイヤすると気候と環境の良いこの地域へ引っ越して来て、余生を送るのが望みだそうだ。

 橋を掛ける場合は面白い。 道路を掘下げコンクリート杭を何本も打込む、そして予め作っているコンクリー卜製の梁を渡して完成し、その下をさらに掘って、近くまできている水を流すと出来上がりである。 結構大きな橋でもその方法で建造している。 水を吸収しない地質と海抜と同じの低い土地が多いからである。 運河には時々海からサメが入ってきて泳いでいる人の足を噛んだとのニュースが聞かれる。 一メートル前後のサメが魚を追掛けてここまで迷い込んでくるのであろう。

[カナルでの餌取りと釣り]

 私はカナル(運河)での釣りが好きだ。 絶対安全で天候には関係がなく、自宅のすぐ近くで歩いて行ける。 ビーチのような砂地から釣りが出来るし、その対岸には、ボートジェッティのある豪邸が建ち並んでいて、その景色を見ながら糸を垂れると、自分の持物のように思って、何とも言えない爽快な気分になるのだ。

 私は釣りをする前に、カナルでの餌取りから始める。 この付近のカナルでの干潮時間は外海の二時間遅れである。 カナルは曲りくねって、かなり内陸まで入り込んでいるので時間がかかる。 時刻表には、州都ブリスベン時が記載されていて、ゴールドコーストでは一時間早くなり、したがってブリスベン時の一時間遅れが最干潮となる。 新月、満月には潮位の差が大きく、表に最低二十センチから最高二メートル前後が書かれている。 その最干潮の三十分前より餌取りを始めるのだが、明るい日中の方が見付け易い。

 カナルは複雑に流れ、たくさんの橋がある。 その両端の土手に固定のためコンクリートが打たれ、その回りに大小たくさんの石が置かれている。 水位の下がった時、水際に近い石を持ち上げると、小ガニ、片方にハサミを持つエビの一種、ドジョウやナマズのような魚が見付かる。 ちょうど良いサイズでチヌ、タイ、コチの餌として最適である。

 さらにその下の砂に埋もれた石を退けると、どこの釣具屋さんでも置いていないブロッドワーム(虫餌)が出てくる。 これはどんな魚でも釣れ、特にキス釣りには、これ以上に良い餌はない。 出来るだけ色の黒い、沼のような臭いのする古い地層、それも土中深くめり込んだ石の下に大物がいる。 長さは四十センチもあって、奥深くトンネルを掘って住んでいる。 穴の中に逃げ込もうとするのを、素早く、潰さないように小さなショベルを入れ、土ごと採取し取り出す。 釣り具屋さんで売っているのはサンドワームという別の種類で、それは喰いが悪い。

退けた石は必ず元通りに置く、このようにしておくと将来また、この場所で餌を見付けられる。 それに環境破壊とはならないのだ。

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2006年10月25日 (水)

53 ホリデイの過ごし方

第五章

[ニューイャーズイヴ]

 気候が夏のせいだろう、クリスマスや新年になっても、その気分がまったく出ない。 町の中、商店でクリスマスの飾り付けを見て、何時も年末を知るのだった。 宵越しの金は持たない主義のオーストラリア人もクリスマスプレゼントの為には預金をすると言う。 クリスマスイヴの日は、各商店とも日本の大晦日のように、時間一杯までオープンし、クリスマスデイには一斉に休業する。

 前述の如く、私の最初の店は海岸近くの歩行者道路に面していた。 ニューイャーズイヴ(大晦日)の夜は賑やかであった。 夕方を過ぎる頃から、どこからともなく、人が集まって来た。 奇妙な音のするラッパを鳴らし、首には夜行塗料で光る輪をしている。

 片手にビールビンを持ち、歩きながら飲んでいる。  グループの一人は、手に大きなクーラーケースを提げていた。 中には冷たいビ-ルが、いっぱい詰め込まれている。夜が更けるほど人が集まってきて、店の前はデモ隊参加の集合場所のようになった。

 私は、この群衆相手に商売を期待した。 ところが何一つ買わないのだった。 通りが混雑し、店の中まで人が入り込んでくる。 中には酔っ払いもいて、これでは商売どころか危険である。 私はタイミングを見計らって、店のシャッターを下ろした。

 何かを期待して、私は妻と、その群衆へ加わった。 車道にはポリスの車が数台来ていた、警察犬用の車のようである。 よく見ると、その中に数人、人が入っていた。 護送車だったのだ。 悪質な酔っ払いを詰め込んでいる。 でも誰一人、悪びれもなく、ニコニコしながら乗り込んでいた。 どうやら彼等は、新年を特別な場所で迎える、それが嬉しいようであった。

 午前0時と同時に海岸で打上げ花火があった。 群衆の数は、その時がピークに達した。 ビールビンが投げられ歩道に砕けた。 近くの商店の窓ガラスも飛散った。

 ところ構わず、オシッコするのか、元旦の朝、歩道は、臭気鼻を付くばかりであった。 ニューイャーズイヴは、一年間のうさばらしをする夜のようだ。 次の年から早々に店を閉めて家へ帰ることにした。

 最近は、厳しい法律が出来、酒類を飲みながら、町の中を歩くと、数千ドルの罰金を取られるようになった。 それらの出来事も、一昔の話しとなってしまった。

[魚釣り]

 当時、同じ建物のテナントに釣り好きがいた。 四十数年前にロシアから永住、名はアーサーと言う。 大声で話す自慢屋タイプの男、七十才に近いが、ガッシリとした体格で元気一杯、五十才代に見えた。 彼は、度々店頭に現われ、喧しく喋りかけて来ては、すぐにいなくなった。 彼は、身体に障害はないがマッサージの資格をもっていて、その仕事をずっとここでやっていた。 彼の店舗は海岸に面し、海を見ながら仕事が出来た。 彼は釣りのチャンピオンになった事もある。

 数十年前には、この海岸でキングフィッシュ(ぶり)が釣れた。 まだハイライズ(高層マンション)が出来る前で、建物も少ない静かな頃、魚の大群が黒く帯状に押寄せてきたそうだ。 その時彼は、仕事を中断して海に出た。 そして観衆の面前で、釣りのテクニックを披露したそうだ。 近年賑やかになり過ぎ、魚は寄り付かなくなったと嘆いた。 それ以来、ずっと同場所を店舗にしているのだった。 ここは遠浅海岸なので、大物魚の接近が、私にはどうしても信じられなかった。

 私も良く釣りをする。 何回かボー卜で外海へ出たが船酔いがひどい。 船が釣り場に着いた途端に酔い出すのである。 それで薬を飲んで乗ってみた。 すると釣り場に到着する前に眠ってしまった。

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2006年10月23日 (月)

52 半期体験授業終了

 翌日も、私は彼の助手として顧客回りをした。 ところが午後から、やる仕事がなくなってしまったのである。

 私は彼の家の芝刈りを申し出た。  電気の授業とは、全然違うが、このまま自宅に帰っても、やる事がなかったからだ。

 彼は、しばらく考えていたが、やがてオーケーをした。 早速、彼の家に行き、刈り始めた。 芝生はかなり伸びていて、予定よりも時間が掛かった。 途中で機械はガス欠となり缶にも予備がなく、しかも彼は外出中だった。 私は、お隣さんからガソリンを借りてようやく、やり終えた。

 次の日は家の大掃除だった。 この日はマフィューとディーンも手伝いにきた。 彼等もこの日、仕事がなかったからだ。 天井と壁それに床の雑巾がけ、テリーも一緒になり四人揃っての賑やかな作業となった。 近々ここでパーティがある、その準備であった。

 テリーは二年前に奥さんと離婚した。 「妻は、お金と物に対して余りにも執着が強すぎた」と、悲しそうに言った。 子供は十一才、八才、三才で女の子ばかり、彼が引取っている。 そして彼の母親が彼の家で面倒を見ていた。 この家は母親の自宅で、築後五十年以上はたっている。 木造平屋建てで、近くに古い大きな墓地があった。 私は、ふとカナダのジョニ-の家を思いだした。 テリーはここで生れ育ったらしく、若い頃の写真や結婚式の写真が壁に飾られていた。 奥さんが写っている、きれいな人だ。 子供達は一週間に一、二度、彼女の家へ連れて行き面倒を見させるのだと言う。 この国では良くあるパターンであった。

 テリーは、ハッピィでなさそうだ。 そのせいか年よりも、ずっと老けて見えた。

 今週で私の半期職場体験授業は終了する。 ところが計算すると、時間数が足らない、そこで私は「来週も数日、働きたい」と申し出た。 傷害保険は今週限りで切れ、延長は利かない。 もし事故があった時は自分自身で責任を取る事とし、担当教官にも、そう伝え許可を貰った。

 ちょうど来週から新しい仕事が入っているとの事、新築個人住宅の配線工事であった。 願ってもない仕事、是非とも体験をしておきたかった作業の一つである。

 週が明け、私は再びマフィューとディーンの組に加わった。 テリーは今日、オフィスにいる。 私は自分の車を運転して彼等の後ろから追いて行った。

 現場は私の自宅から、そう遠くはない。 湖に面した敷地に立派な家を建てていた。 すでに外観は出来ていた。 マフィューはディーンと私をうまく指図し、てきぱきと作業を進めていった。 綱の目のように壁と天井にVA線を這わし、配電盤の近くに集められ、たちまちケーブルの束となった。

 やがてランチタイムが近付いた。 私はマフィューから呼ばれ、彼の昼食を買いに行くよう命じられた。 ディーンと私は弁当持参である。 彼だけが持っていなかった。

 年令に拘る訳ではないが、私の半分以下の年下の者から、小間使いされているようで、「ムッ」となった。 でも、ここでは彼がボスだった。 あと数日で終了する。 言われたように自分の車を運転して買いに出掛けた。

 二軒目の店で、彼の言う品物が手に入った。 自分の家の近辺であり、何時も買い物する店々なのに、今まで立寄ったこともないショップ、又、自分が一度も口にしたことのない食べ物を探し求めていると、不思議なことに付近一帯が全く別の地区であるように感じられた。

 午後からは、コンクリート璧の穴開けだった。 相変わらず、日立製ハンマードリルの先端がはずれる。 どうもテーパーの角度が合ってないようだ。 その事をマフィューに告げたが、全く聞き入れなかった。 低い所は問題ないが、高い脚立の上では危険である。

 私は彼に言った。 「学校の傷害保険は先週で切れている、このドリルは、先が外れて非常に危険である。 高い場所での作業はお断わりしたい」すると彼は「保険か」と言って苦々しい顔をした。 それ以来、身体の大きなディーンが代わってくれた。

 数日間で足らなかった時間数を取戻した。 これでこの授業はパスになる。 最初、ベンとトラブルを起こし、三週間に二人も雇用主が代わった。 そして彼等の人柄、仕事ぶり、それに家庭事情まで、つぶさに見ることになった。

 民族は違っても同じ人間、感情や思いは皆同じである。 お互い文化の相違で、ほんの少し考え方に差があるだけだ。 短時間だったが、技術の習得はもとより、すばらしい人生体験が出来たのだった。

 無事職場体験授業が済み、十二月も中旬近くになった。 商店街のウインドーは賑やかな飾り付けをし、クリスマス商戦たけなわとなっていた。 年が明け、一月末より授業が再開される。 それまで長い夏休みの始まりであった。

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2006年10月20日 (金)

51 仕事内容あれこれ

前のべンの仕事よりも範囲が広くバラエティーに富んでいた。 新産業地域の建物は非常に大きい。 一つのスペース内に屋根なし二階の建物が、すっぽりと入っている。 そしてその各部屋の壁中に数十本のケーブルを配線していく、これぞ電気工事の仕事だとの感であった。

 でも高い梯子の上、厚さ二十センチのコンクリートパネルの壁に穴を開ける作業は非常に危険だった。 パネルが硬く、ハンマードリルが入っていかない。 ドリルは大きくて重い、しかも先端が震動で時々外れた。 力一杯押しているので、途中で外れたら、機械もろ共落ちること間違いはない。 障害保険に入っているが、授業中にケガをしては割に合わない。 余り力を入れず、梯子にしがみ付くようにして穴を開けた。 そのかわり、倍以上の時間が掛かった。

 マフィューは、新入りの私に、これがチャンスとばかりに、自分達の嫌な仕事ばかりをやらせるような気がしてきた。

 私は以前、ベンとトラブルを起こしている。 ここで文句を言って、それを再び起こせば、もはや、この課目のパスは望めない。 辛抱して続けねばならない。

三日目の朝、何時ものように出勤すると、「今日は、仕事がないから、帰るようにと言われた。 建物内の配線はまだ済んでいない。 昨日、途中で仕事を止めて帰ったのだった。「アレ、おかしいな、何かあったのかな?」彼の表情から、重大な事があったように伺われた。その訳を聞くと、叱られそうなので止めた。 ボスの言うことだ、仕方なく帰途についた。

翌日からは、テリーの助手として、彼の車に乗込んだ。 マフィューとディーンも別の車でどこかへ行ってしまった。 産業地域の建物でないことだけは確かであった。

 以前のベンと同様に顧客から頼まれた仕事で、オフィスの照明器具の取付けと個人住宅の防犯ランプの取替え、又、ハイライズ(高層住宅)の電気器具の修理等であった。 テリーはお抱えの電気屋さんだろう、どこのハイライズのマネージャーとも親しかった。

[仕事ぶり]

 マネージャーを通じて、マンションの住人から、パワーポイントの取付け工事を依頼された。 私は工具類と脚立を持って、彼の後に続いた。 三十階で降り、ドアーをノックすると、三十才前後の女性が出て来た。 取付け場所へ行き、彼が見積りをすると、彼女はそれを了承した。

 ハイライズの壁は分厚いコンクリー卜製で内部にケーブルが通せず、表面を這わしプラスチックカバーをする。 彼と私はカバーを車まで取りに行った。 カバーは一メートル足らずしかない、その三倍は必要だ。 車の中をいくら深しても出て来なかった。 彼は不機嫌となった。 材料店まで車で約十分、でも彼は面倒だったのか、それだけを持って部屋に戻った。

 彼の仕事は非常に荒っぽい。 大きな音を立て、食器棚に穴をぶち開けた。 穴のまわりに木のケバ、ケバがいっぱい付いている。 戸のある食器棚で中が見えないから、直接ケーブルをステップルで打付けた。 外に出たケーブルにはカバーがいる。 目的の取付け場所までは、とても足らなかった。 ところが彼は約束の取付け場所を忘れてしまったかのように、短いカバーの端にパワーポイントを取付け、作業を終えてしまったのである。

 彼女は「アレッ」と言う顔をしていたが、何も言わず、見積り金額を支払った。 ボスのすることだ、私は見て見ぬふりをし、これで同罪となった。 彼女の顔を見ないようにして、急いで道具類を持って外に出た。

 車の中で彼は言った。 「電気の仕事は重労働である。 私は今、三十六才だが仕事がきついので、やめたいと思っている。 次のビジネスとしてボディビルのジムを始めた。貴方はこれからやろうとしているが、良く考えた方がいい。 アプレンティスシップが済み資格が貰えても、自営ライセンスを得るには、その後、まだ二年間の実務経験が必要である」。

 アプレンティスシップの契約主を探すのは非常に難しい。 で、運良く見付かって終了しても、自立するまでには、二年間の実績がいると言うのだ。 もしアプレンティスシップの契約主が見付からなかったら、何年かかるか予想も出来ない。 年を取っても事務職なら出来る。 でも電気工事業は無理である。 残念ながら、私は、方向転換をしなければならなくなって来た。

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2006年10月16日 (月)

50 一苦労の末に

[一苦労の末に]

 この課目は六週間で二百二十八時間、今回はその半分を取ることになっている。 毎日、日報を付け、時間数と仕事内容を記入、雇用主からサインを貰い、その三週間分を教官に提出することで、前半分がパスとなる。 今までの合計は三十時間で、早く次の雇用主を見付け、時間嫁ぎをしないと、期間が決められているので、パスは出来ない。 今日、明日中になんとか深し出さねばならないのだった。

 電話帳で住所を調べ、電気関係の会社を隈なく歩き回った。 しかし、どこも「今は暇なので」との答えであった。 こんなに難しいとは思わなかった。 諦めて自宅に帰ると、電話が入った。 担当教官からだった。

「月曜の朝、学校で合おう、新しい雇用主を紹介するから」との事、私は暗闇に一点の灯を見たような気持ちがした。 もう完全に諦めていたのだ。

 その朝、私は教官に事態を詳しく説明すると、彼は、「三週間位、なにがあっても辛抱しろよ」と言われてしまった。 年がいもなく恥ずかしかった。 「その通りです。本当にすみません」と謝った。 

私は無給の仕事をしているのだと、ベンを軽く考え、常に批判的に見てきた。 私は彼より年上だし、元雇用主だったと、臨分大きな態度で接していたのだ。 彼にとっては生意気で有難くない存在だったに違いない。 学びの場所を提供し、教えて貰っている感謝の気持ちがあれば、柔順になれたのだった。 彼に雇用主の心得を説くより、自分が雇われ人の心になる事が必要だったのである。 次の職場体験場所を見付ける難しさを知り、今やっと、それに気が付いた。自業自得だったのである。

 教官は住所と雇用者名の書いたメモを出し「今すぐここへ行って、この書類にサインを貫って来るよう、彼はオフィスで待っているから」と前回と同じ保険用紙を渡された。 雇用主が変わると、その手続きもやり直しとなるらしい。 面倒な事である。

 私は早速その場所へと急いだ。 学校からは、そう遠くなかった。 そこは出来て間もないインダストリアルエリア(産業地域)であった。 通り及び建物番号を確認して、辺りを見渡したが、それらしき会社が見当らない。

 十メートルもある高い天井から数本のロ-プが降りていて、砂袋が吊るされ、バーベルやトレーニングマシーンが置かれている倉庫のような所が番地と一致する。 そこに人がいたので聞いてみた。

「テリーを捜しています」教官からは名前だけしか聞いていない。 バーベルの側に座っていた、四十才過ぎの大柄な人が立ち上がった。 「テリーは私だ」 私は自己紹介をし、用紙にサインを求めた。 教官とは、すでに合意が出来ていたらしく、すぐにしてくれた。「前の場所でトラブルがあり、実技時間が不足しています。 この書類を学校へ提出後、すぐに戻って来て働きたいのですが?」と言うと、オーケーが出た。

 外に出ようとした時、入口近くに物置場があって、そこに電気工事材料が置かれていた。 「アッ、やっぱり電気屋さんだった」と安心した。 でもカンバンは、どこにも見当らない、ここはどこから見ても体を鍛えるジムであった。

 教官に書類を渡して、トンボ返りで戻ってきた。 テリーの車で作業場へと向かった。現場は近い、事業所からは視界の範囲で直線道路上にあった。 インダストリアルエリアでは、今でも建物を建築中で、それらの電気工事をしていたのである。

若い二人が働いていた。 テリーは、私を彼等に紹介した。 マフィューは二十五才、すでに電気工事のライセンスを持っている。 ディーンは十九才、アプレンティスシップの途中で、テリーが彼の契約主だった。

 外部配電盤から建物の中へ、直径6ミリのケーブル三本を埋設している最中だった。  私は長い柄のスコップで穴掘りをするように云われた。 陽射しがきつい、汗が吹出した。 今日は面接があると思ったので作業服は持ってこなかった。 余所行きの服装である、皮靴の中に砂が入ってきた、長ズボンに土が着く、白いカッターシャツが汁で身体に貼り付くのが感じられた。 

 若い二人は、私が年配だとか、身体が小さいからとて加減はしない。 ハードな仕事ばかりを言付けた。 でも私は、それが嬉しかった。 特別扱いはして欲しくない、これで仲間入りが出来たのだった。

 スネイク(蛇)と呼ばれている一巻になった長いスプリングのケーブルがあって、地下に埋設したビニールパイプに、それを通し、出てきた端に数本の電線を括り引っ張る、一人は線が、ねじれてパイプに入らないように挿入していく。 長さは約二十メートル、太く堅い線を直径の小さいパイプに挿入するのでかなり手間取った。

 もっと長くなるとパイプも曲がりスネイクを通すのも一苦労する。 そんな場合はパイプの中に予め紐を入れている。 線が細く柔らかいとそれで十分、でも途中で紐と線が外れた、又紐が切れたら一大事である。 「もしそうなったら、どうするのか?」と質問した。 「それには方法がある」と笑って教えなかった。

 建物の配線図があるのに、どうして最初からパイプにケーブルを入れて埋設しないのかと思ったが、最初から質問ばかりするのも良くないので止めた。

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2006年10月13日 (金)

49 トラブルの発生

[トラブルの発生]

 次の日は電気器具の配線であった。 前に述べたが、この地区では一般家庭のクッキンは殆ど電気である。 この国は天然ガスが豊富に出て、政府の援助もありプロパンガスが非常に安い。 ちなみに、当時、私の家で四十五キロのボンベ二本で三年間使った。 その値段が全部で九十四ドル、安い燃料代である。 電気代も安く、屋根に太陽熱利用のパネル付き電気ボイラーを設置しているが、請求書は三ケ月に一回来て、毎回百ドル前後だから、一日が一ドルちょっとである。

 この家は築後三十年以上経っているだろうか、台所改装のため、電気コンロとオーブンを移動させていて、その再接続であった。 彼は防塵マスクに膝あてをし、照明器具と道具類を持って天井裏へ入った。  そしてメインケーブルにジョイントすると降りてきた。 頭から足まで、今までに見たこともない程、ほこりで汚れていた。 彼は天井裏での汚い仕事を、自分がしなければならないので不機嫌なようだった。

「私に言えば良いのである。 私は自宅の天井裏へは、アンテナ工事の為、しょっちゅう入って、慣れているのだから」と、一人でつぶやいた。

 そこの仕事が済み、後片付けとなった。 道具類全てを車に積込み、エアコン作業中の彼等のいる現場へと急いだ。 そして何時ものように、彼が天井裏へ入ろうとした時、つなぎケーブルを、前の場所に忘れたことに気が付いた。 予備があったので仕事に支障はなかったが、ベンは非常に不機嫌になった。

「そうだ、ガレージにアルミ製ボートがあった。 彼はその上に脚立を置き天井裏へ入った。 ケーブルはきっと、その中にある」 あと片付けの時、私は目の位置より高かったので、その中まで見なかったのだ。 彼はフッブッ文句を言い、私が良く点検をしなかったからだと、作業の間中、それに引掛けて嫌味を言い出した。

「彼の言う通り、責任は私の方かも、でも忘れ物は彼の常習ではないか、余りガミガミ言うな」と、私は反抗的となった。 今思うに、ここで「すみません」と言っていれば、その後の状況が変っていたであろう。 私は仕事の終了後、一人で取りに行くことにした。 自宅の近くで良かったが、家の人が不在で、三度目にやっと面会出来、ケーブルを手に入れた。

 次の朝、彼にケーブルを手渡しながら、口には出さぬが「これで文句はなかろう」との思いだったのである。

[喧嘩別れ]

 今日はシーリングファン(天井扇風機)の取付けである。 新築のタウンハウス(長屋住居)用に、私は時間の合間、十個の組立をしていた。 中国製で、ネジが締まらなかったり、部品が足らなかったり、塗装やメッキが剥げていたりしていた。

 オーストラリア製もあって、もっと品質は良いのだが、値段が高すぎるので、ほとんど使われていない。

 私が作業場所にし、倉庫がわりとしていた空き家から、それらを運び出し、ベンは車に積載した。 「あぶないな!」 彼は乱雑に重ねた。 取付け場所は、すぐ近く、ボスのやること、口出し無用。

作業場所へ着くと、彼は私にそれらを家の中まで運ぶよう命じた。車の左側スライドドアーを開けて、一番上の箱を持ち上げた途端、その下の数箱が、せきを切ったように外へ転げ落ちた。 扇風機本体と取付け用ネジ類が真下のガーデンの土と雑草の中へ入ってしまったのだ。 そしてネジ類を拾い集めている所を、家の中からでて来た彼に見付かってしまった。 「何をしている!」と彼は厳しい顔をした。 「箱が引っくり返った、今ネジを探している」「品物にキズを付けなかっただろうな?」と彼は不機嫌となった。 昨日のケーブルの一件をまだ根に持っているようだ。 私は「大丈夫です」と答えながら「貴方の積み方が悪いからだ」と、一人つぶやいた。

 扇風機の取付けを手伝っている最中でも、彼の機嫌が悪く、射るような目付きで指図した。 作業が済み、何時ものように、工具類を車に積込む頃から、口喧嘩が始まった。 「昨日のケーブルの件、それに箱を引っくり返したのは、貴方にも責任がある!」「いや、すべておまえの責任だ」「それなら、今から学校へ行き、教官に話を聞いて貰おう、一緒に来て欲しい」「おまえ一人、自分の車で行け」「こんな小さな事で怒るようなら、人は雇えない」とうとう私は言ってはならぬ言葉を吐いてしまった。 私は元雇用主であり、人の使い方は、貴方よりも経験が豊富だと言いたかったのである。

「そんなこと、何の関係もない」と彼は言ったが、少し気にした様子だった。 私は「もうこれ以上、あなたの下で仕事はしたくない!」と言った。

 正午前、私は彼の家の前に駐車していた車に飛び乗り学校へと急いだ。 例の如く、頭に血が昇り始め、その脈音がドキッ、ドキッと聞こえて来るのがわかった。

 学校の事務所に行き担当教官に面会を申込むと、今日はデイオフ(休み)であった。 教官は週二日の勤務で本来木曜日は出勤となっているが、今日は特別で、出て来ないとのことだ。 教官個人の電話番号はセキュリティの理由から絶対教えないので、メッセージを伝え、彼からの連絡を待つことになった。

 今の、この興奮時に、すぐにでも彼に会って事情を説明したかったが、どうする事も出来ない。 頭に昇っていた血が、緩やかに下がっていくのが感じられた。 三日坊主と言われるが四日目の朝の出来事だった。 それにしても、ベンを連れて来なくて良かった。

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2006年10月11日 (水)

48 職場体験 3

 ベンが天井の中から出て来た。 ほこりと汗で一杯である。 どうも彼は、人一倍汗かきのようだ。 電気工事は重労働で単純作業の繰返しである。 そして最も気を付けねばならないのは、日本の二.四倍の電圧で、活きた方には絶対触れてはならない。 学校の教官は、いつも言った。 「人を信用するな、電源の入り切りの確認は自分でせよ」であった。

 ベンは良く忘れ物をする。 エアコンの配線工事は、そう時間は掛からない。 それが終ると、彼自身で注文を取った作業場へ移動する。 エアコンの取付けから作動テストまでは時間がかかるから、いつも後片付けは、彼等がすることになる。 その時、ベンの持物が残っているのである。 先週は脚立を忘れていたらしく、今日彼等から貰っていた。

 二日目の朝は、ベン自身が注文を聞いた仕事で、ボヤを出した家の電気器具の取替えであった。 ロ-ソクをたくさん点灯し、パーティをしていて、それが天井に燃え上がったらしい。 幸い大事にはならなかったが、天井のペンキ塗り替え、照明器具の取替えをすることになった。 べンは「訳の分らぬ、儀式パーティでもやっていたのだろう」と眉をしかめた。

 二軒目の作業は、庭にパワーポイント(電気のコンセント)の取付けで、それはプールのモーター用だった。  ブリックに長いコンクリートドリルで穴を開けケーブルを通す、反対側の内壁にパワーポイントがあり、そこにジョイントした。  外側は雨が掛かるので、屋外用を取付け、隙間部分にはシリコンを流し込み、防水をした。 彼は「私は、他のエレクトリシャンとは違う、ずっと丁寧に仕事をするのだ」と自慢した。

その仕事が済み、次へ移動中、私は彼に質問した。 「今の仕事で一体いくら貰うのか?」 防水用パワーポイントは室内用に比べ、ヘビーデューティ(非常に頑丈)に出来ている。 仕入れで買っても五十ドルはするだろう。 

今の仕事は、六十八ドルだった。 他の業者なら八十ドルが相場である」彼の言葉が続く、「部品のコストは四十六ドル、おなじみさんなので安くした。 依頼主も部品の値段位は知っていて、どの程度の利益があるか分る。 安くして置けば、また仕事をくれる」

ここは、リゾート地で、人口も少なく、あらゆる職業が暇である。 彼の忙しさの秘訣は、この薄利多売にあった。 人を使っていると、値下げにも限界はあるが、オーストラリア人としては珍しい商売のやり方だと思った。

 ここでのビジネスは、たいてい一回切りとなる。 それは仕事をする人が転々と職業を変えるからである。 何十年も同じ仕事や会社を所有する人は非常に少なく、二、三年、仕事をすると、営業の良し悪しに拘らず、今まで獲得した、お得意さんを付けて売ってしまう。

 前に述べたように、レストランだけでなく、庭の芝刈り業者を始め、すべての職種と言える。 それは金残的な理由、気分転換、又は長期休暇を取る目的と様々である。

 以前、工事をした人、業者や会社が大変親切で良い仕事をしてくれた。 もう一度頼みたいと電話しても、少し期間が経つと、会社名は同じでも、オーナーが代わっている。 又、住所も移転している場合が多い。 「前に仕事をして貰ったので、又、頼みに来た」と言っても、喜んでくれるのでなく、不思議そうな顔をする。 そして仕事を頼むと、価格や仕事ぶりが全然違っている。 値上げし、サービスを落としているのが一般的である。 そこで依頼人は業者を新しく見付ける為に、いつも電話帳を利用するのだ。

また、オーストラリア人は、一生に五、六回は引越しをすると言われている。 そんな理由もあって、一回切りの仕事が多くなるのである。

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2006年10月 9日 (月)

47 職場体験 2

三十分程走って現場へ着くと、仕事仲間がすでに来ていた。 彼等はエアコン屋さんだった。 もう何時の間にか、真夏のシーズンが始まっていたのである。

 私の家にはエアコンがない。 この地域は、それを必要とする程、暑くならないからである。 日中が三十度を越しても、日陰に入れば涼しく、夜になると、温度は半分近くに下がって寝苦しくない。 シーズン中、蒸し暑い日もあるが、そう多くなく、扇風機で充分用が足せる。 余程、暑がりの人でない限り、エアコンは必要としないのである。

ドーナツショップをやっていた時、日本から、かき氷の機械を持ってきて、店頭で販売したことがあった。 ところが、全く売れなかった経験がある。 ここでは、かき氷が必要な程、蒸し暑くはなく、アイスクリームで十分だったのだ。

 エアコン設置にはライセンスがいる。 電気の場合と同様のプロセスを経なければ取得できない。 又、エアコンの機械には電気が必要で、その配線をするのに電気工事のライセンスがいる。 したがってエアコン設置に二つの免許がいるのである。

 彼等とはコンビとなって、いつも仕事をしている、かなり古くからの仲間であろう。 ジョークを言い合っては、大声を出して笑っていた。

 ボスは四十才位、二ュ-ジーランドのマオリ族で島民独特の顔立ちをしている。 もう一人は同年代のオーストラリア人で、この仕事をやり始めて間もないようだった。

 エアコン設置を依頼したのは、中国系の若い奥さん、そして五十才前後のオーストラリア人の旦那さんだった。 香港に長く住んでいて、最近ここへ引越しをして来たらしい。 かなり立派な建物で各部屋に中国製アンティック家具が所狭しとばかりに置かれていた。

 エアコン屋の彼等は、依頼人と長い間話し合っていたが、もう一度取付けに来ることを約束した。 機械のサイズが合わず、取寄せを待つ事にしたのである。

 彼等は次の場所へ移動することになった。  私達もそれに従わざるをえない。  べンは、彼等の車の後ろに付いて走り、十五分程で目的地に着いた。 その家のガレージの前に駐車した後、彼は荷台から大きなプラスチック板を取り出し、車の下へ敷いた。 私が不思議そうに見ているので、彼はその説明をした。

「エンジンからオイルが漏れている。 地面に跡形が付く、その防止の為だ」

[電気工事]

 ベンは天井の中へ照明燈と、長いプラスチック棒を持って入った。 私は配電盤の扉を開いて待っていると、天井裏から差入れたプラスチック棒が降りてきた。 この棒は、柔らかくて強く、どんな角度にも曲がる。 プラスチック板の繋ぎ目に使用される建築資材だが、安価で重宝、どこの電気工事屋さんも持参している。 でもまだ名称が付けられていなく、ベンはプラスチックの物と呼んでいた。

 私は、その先端に直径二ミリのVAケーブルをビニ-ルテープで固定した。 彼はそれをもう一度、天井の中へと引っ張る。 私は巻かれて束になったケーブルが、ねじれないように壁の中へ挿入させていくのである。

 オーストラリアの家は、たいていブリック(レンガ)造りである。 古い建物は、木造とか、又はダブルブリックと言って内壁までレンガになっている。 この場合ケーブルを通すのが一苦労である。

 一般的な、家の建築工法は、コンクリートで基礎をした後、細い木材で外形を組立、あらかじめ出来ている三角形になった木製の天井屋根枠を無数に、その上へ取り付けていく、遠くから見ると、マッチ棒で出来た家のようである。 その後、木枠に添ってモルタルでブリックが積み上げられ外壁となり、周囲から見ると非常に重量感あふれる造りとなる。 最近、気が付いたが、家の中にいて、耳を澄ますと、どこからともなく、音が聞こえてくる。 これは無数にある木材が膨脹や収縮を繰返して発する音なのであろう。

 昨今、家の内壁は、大抵プラスターボード(石膏ボード)になっていて、ケーブルを通す作業がやり易い。 横に桟があれば、その部分だけ切込みを入れて線を挿入し、あとはプラスターとペンキで補修すれば跡形は分らなくなる。 その桟を探し出す器具も売られている。 屋根は前に述べたように、簡単な構造で、断熱材を敷く場合もあるが、たいていは細い木の桟に直接瓦を特殊釘で取り付けている。 雨漏りはしないが、下から覗くと、瓦の隙間から青空が見えている。 これはまた自然通気口ともなっている。 なお天井板には絶対足を掛けてはならない。 桟伝いに歩かないと、どかっと穴が開いてしまうのだ。

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2006年10月 6日 (金)

46 職場体験 1

[職場体験授業]

 週が開けた。 「七時半に家に来るように」と言われていたので、月曜日の朝、少し早めに着き、駐車場所を探していた。 道路を挟んだ反対側に、この町でも古くて由緒あるゴルフクラブがあり、この家の筋向かいがゲイトになっている。 このゴルフ場での、少し嫌な経験が、甦がえって来た。

 七年前、日本人の友人達と一緒に、ここで朝早くゴルフをした。 今は、たくさん立派なパブリック用のゴルフコースが出来ている。 当時は、ほとんどがメンバーコ-スで、どこかのゴルフクラブメンバーでないとプレイが出来なかった。

 メンバーになるにも、入会したい人が殺到していて、そう簡単にはなれない。 そこで先ず僻地な場所にあるゴルフクラブのメンバーとなった。 町から南へ車で三十数分走った山手にゴルフ場があって、そこではすぐメンバーになれる。 こちらに古くから住む、日本人のゴルフ好きは、大抵そこのメンバーとなった。

 入会金が百数十ドルで年会費も、ほぼ同額であった。 メンバーになると、何度ラウンドしても無料、又、他のゴルフクラブでのプレイが許され、料金も非常に安かった。

 私が代表で、向かいのゴルフクラブヘブッキングに来て、難なくそれを済ませた。 さてプレイの朝、時間を待っていたら、年配のオーストラリア人が、私に近付き、話かけて来た。 ここの関係者らしい。 日本のブレツトトレイン(新幹線)の話題が出て大変フレンドリーだった。 ところが突然態度が変わり、「このゴルフクラブでは、ハンディが16以下でないと、朝早く、コースでのプレイをしてはいけない」と言出した。 ハンディ16と言えば、かなりの腕前である。 私達は、せっかく来たので、プレイはしていった。 でも嫌な気分で、このゴルフ場へは二度と来たくないと思った。

 後日、知人が「そう思わせるのが目的で、朝早くから、そのゴルフ場の関係者が貴方達を待っていたのだ」と言った。

 ずいぶん昔だが、「戦場に掛ける橋」と言う映画があった。 私が小学生の頃、映画館まで生徒が大行列を作って観賞にいった記憶がある。 太平洋戦争当時、タイとビルマ国境の川に掛けられた鉄橋工事の物語で、日本軍がマラリア渦中にある捕虜を酷使して作業を進めたと言う。 そこにオーストラリア人兵士も大勢いて、その中の一人が、近年、このゴルフクラブの会長となった。 それ以来「彼と上層部は日本人を嫌っているのだ」との話を聞いたのだった。 私達は戦中及び戦後生れで、戦争当時のことは全く知らず、何の拘りもない。 でもその影響が、今でも延々と続いていたのである。

 さて、私が駐車を終え、車から降りると同時に、ベンはガレージのシャッターを開けて出て来た。 お互い簡単な挨拶をかわし、彼の指示で助手席に乗ろうとした。 ところが、紙屑、書類、ジュースのボトルが散らかり座る場所がない。 又、足下には、彼のランチの入ったクーラーケースが置かれていた。 私はそれらを移動させながら、身を滑り込ませるようにして、乗込んだ。 自分の道具と弁当の入ったバッグは膝の上へ置いた。 彼は、「何時もは、もっときれいなのだが、最近忙しいからだ」と言訳をした。

 車はトヨタのハイエースバン、前に述べた移動式事業所である。 古い車なので、エンジンを掛けると、椅子とウインドーがブルブルと音を立てて振い出した。

 彼は、奥さんに負けず劣らず話好きであった。 作業現場へ着くまで一人で喋った。 時々、彼は耳が痛くなった。 奥さんから早く医者へ行くようにと勧められていたのに、そうしなかった。 数日前、激痛がするので、ようやく医者へ行ったら、中から大きな耳垢が出て来た。 それがなくなった後、痛みが取れ気分壮快となった。 もっと早く医者に行くべきだった。 とか、以前は酒浸りの毎日で、家庭生活がメチャ、メチャだった。 ある時、通りで牧師さんに呼びとめられ、チャーチヘ来るよう勧められた。 無神論者だったが、教会に行くと、そこには、すばらしい別世界があることを発見した。 それ以来、ずっとチャーチに通うようになって、人生の転換が出来た。 やがて、現在の奥さんと知合い再婚、今は本当にハッピイである。 チャーチヘは週二回行くようになり、奉仕活動もしている。 と言って具体的に、その内容を説明した。

 彼の会社名は、その中の神名から名付けたそうである。 以前、スウーデン出身の4人の男女歌手グループが世界的に有名となった。 その名のシンボルを、そっくり、そのまま採用していた。 最初私は、そのグループの熱狂的なファンから、そうしたのだと思っていた。

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2006年10月 4日 (水)

45 ジョブプレイスメント

 オーストラリアではスモールビジネス(小規模の自営業者)が非常に多い。 特に建築業界に集中していて、大工さん、ブリック(レンガ)屋さん、タイル屋さん、屋根瓦屋さん、水道屋さん、ガス屋さん、電気屋さん、まだ細かく別れていて、一軒の家を建てるのに、二十数カ所から、別々の業者が集まって来る。

 それらの業務をするには、必ずライセンスがいり、そのライセンスを取得するのに、前に述べた制度、アプレンティスシップがいるのである。

 たいてい、それらの業者はハイエースバンのような車の中を改造して棚を作り、道具類や材料、部品を置き、又、屋根にはラックを取付け、長いビニ-ルパイプとか梯子や脚立を乗せている。 そんな車が、町中を走っているのを良く見掛ける。

 余程大きな会社でない限り、事業所や店舗は持たない。 ほとんど自宅が事務所兼事業所となっていて、最近はモービルフォーンの普及で、家の電話番号すら使用しなくなり、車の中が事業所でありオフィス、倉庫であり作業場となっている。 電話帳からの注文がほとんどで、大きく立派な広告を出していて、自宅が住所になっていても、そこには、社名のカンバンすら掛かっていないのが普通である。

 私が、玄関のチャイムを押したら、中から、きれいな中年女性が出てきた。

「ここはXX電気ですか?」 「そうです」 私が用件を言うと「主人は、まだ帰っていないので、中に入って待つように」と言われた。 奥さんにリビングルームヘ案内されソファーに座って彼を待った。

 彼女は話好きであった。 初対面の私に、家庭事情を、いろいろ打明け始めた。 奥さんは御主人と二度目の結婚で、彼女の方には、前の主人との間に、二人の子供がいる。 息子は二十六才、彼はクィーンズランド州の僻地で仕事をしていて、今、ホリデイ期間中で家に帰っている。 とそう言って、テレビを見ている彼を紹介した。

 娘は、最近結婚をして、先日ハネムーンから帰ったばかりである。 近くに住んでいて、この家へは度々やって来る。 そうすると奥さんは、若いように見えるが相当な年配となる。

 別の部屋に中学生らしき女の子がいた。 コンピューターのキーボードを叩いている。 奥さんからは、何の紹介もなかった。 「ではこの子は一体誰なのだ?」 

 そうこうする内に、御主人が帰ってきた。 まだ若く四十才過ぎであろう。 名前はベンと言った。 彼から、女の子を紹介された。 実の娘で十五才、お互い子連れ再婚だったのだ。 面白いと思ったのは、結婚していても実の子以外は人には紹介せず、彼の帰るまで待っていたことである。

 この国では、離婚率も高いが、子連れ再婚も多い。 愛情はもとより、お互い経済的、合理的な理由で一緒になる場合が多い。

 私は、彼にレズメと学校からの紹介状を渡した。 そして前に述べた保険の書類にサインを貰った。 さて三週間のジョブエクスピューリアンス(職場体験)は、ここですることに決まった。

 二十週目も、いよいよ終わりに近付いた11月半ば、今年のクラスでの授業は、これで最後となる。

テストはすべて合格している。 自分でも信じられない程、うまくいった。 国籍や年齢、英語力不足の不安など、どこかへ吹き飛んでしまい、年甲斐もなく自信満々となっていた。 しかし過剰な自信は、トラブルを起こしかねない。 やがて、それがやって来る。

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2006年10月 2日 (月)

44 クラスメイツあれこれ

 このテストではパスは一人だけ、他のクラスメイツはすべて欠点を採ったとの事。 電子科クラスの出題内容が一段と難しくなってきたようだ。 この課目には、六つのテストがあって、マークはすべて落としてしまった。 でも彼は相変わらず、気にしていない。 休憩時間、彼がバーバラと仲よく話をしているのを見掛け、 私は、「うまく、いっているらしいな」と思った。 その後も何度か二人で楽しく話合っている姿を見た。

 数日後、私はカンティーン(食堂)でコーヒーを飲んでいた。 窓越しの遥か彼方にマークが見える。 彼は立ったまま、タバコをふかしつつ、クラスメイツと話をしていた。そして常にキョロ、キョロと辺りを見回している。 どうも女の子を物色しているようだ。

 次の日、私は彼に言った。 「日本のことわざに、二兎追う者は一兎も得ず、とある。 彼女は一人にしぼれ」と、それ以来、彼は女の子を見たら、ラビットと呼ぶようになった。 今日の昼休みには、女性徒が多いD校舎まで行って来たと言う。 彼は話の最中、女の子が前を通り過ぎると「フッ」と、そちらの方を向いて話題を逸らしてしまう。 ある時、少しムカッと来たので、「君は、この学校へ勉強に来ているのか、それとも女の子を捜しに来ているのか?」と、質問してやった。 すると彼は、「それを答えるのは、非常に難しい」と言った。 全くヌカに釘だったのである。

[ジョブプレイスメント]

 電気科クラスの授業中、ジョブプレイスメントオフィサー「職場配属係の教官」が度々やってきた。 二十一週目からの職場体験授業の場所を確認する為である。

 その場所は、原則として自分で見付けることになっている。 クラスメイツの卜ニ-は父親が電気工事の自営をしているから、そこでこの体験学習を取るそうだ。 どうも親兄弟でも良いらしい。

 マックスは知人の電気業者に頼んだそうだ。 ジェミニ-は自分で電話帳から探し出したと得意になっていた。 私とリッキー、ボーガンはまだ決まっていなかった。 彼等は、それを受ける気持ちがないようで、この後、クラスヘの出席さえも危うかった。

 私は、どこにもコネがないので、電話帳から探さねばならなかった。 数社電話をかけると、「今は忙しくないので」と、断わられた。

 この授業は、二回に分れていて、今回とコースの最終とにあり、合計六週間である。 給料は勿論、交通費、食費等は一切出ないことになっている。 又、その期間中に事故が発生した場合に備え、政府の負担で研修生全員に保険が掛けられている。

 私がレストランをしていた頃、この話を聞いたことがあった。 当時私は、従業員を無料で雇えるなんてと、自分の耳を疑った。 でも、なんとなく気がすすまないのは、それを請ける雇用主は給料が払えない程、業績が悪いからで、恥ずかしい事だと思っていた。 今回、自分が全く逆の立場に立たされて、その全容が分ったのである。

 雇用主には、その会社独特のテクニックがある。それらも一々教え込まねばならない。 それに、忙しいと返って足手まといとなり、又、暇だと来て貰う必要がない。 職業にもよるが、要するに無給とはいえ、余り有難くない存在なのである。

 では何故、こんな課目を設けているのかと言うと、この授業によって研修生と雇用主との親交を深め、就職のチャンスを得るためである。 事実、その後も続けて働くことになった、又、運良くアプレンティスシップの契約に結び付いた例もあるのだった。

 私は担当教官から、リストを貰って、ある電気工事業者に電話をした。 そして早速、明日の夕刻、面接に行くことになった。

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2006年9月29日 (金)

43 授業のスキップ

[授業のスキップ]

 ある日の午後、私は図書館で、電子科クラスの年配連中と一緒にいた。 ジェミニーと他のクラスメイツが入ってきて、午後の工作機械の実習をスキップ(さぼる)すると言う。 そしてこの時、教官が大嫌いだと言わんばかりに、彼の名字を呼び、さらに「頭に毛のない奴だ」と付け加えた。 私にもスキップの参加を呼掛けたつもりだった。 ところが、若い人達の会話で分らないことが多い。 その時、彼が何を云ったのか、よく聞き取れず、返事もせずに、笑っていた。

昼休みが終わり実習室へ行って、それに気が付いた。 出席したのは、私一人だけだったからだ。 どちらにしても、世代の違い、考えの相違で、彼等とは、同じ行動は取れない。 これで良かったのである。

 教官は、「私は、生徒達から嫌われたのだ」と、相当なショックを受けていた。 「先生として、間違った事はしていない。 問題は彼等の方にある」と、私は彼を慰めた。 彼は「フン、フン」と言って聞いていた。 どちらが生徒か先生か分らない。 私は、彼に「ソウリ」と言うて謝った。

 コンピューターの課目が加わった。 前回の機械に馴れさせから、本格的な操作技術を習得させる為である。 私は、もうコンピューターが好きとか嫌いなどと言っておれなくなってしまった。 授業となれば、マスターしないと、パスが出来ないからである。

 教官はロン、五十才。 ハリウッドの往年の名優、ヘンリーフォンダを思わせる顔立ちをしている。 彼は電子工学とコンピューターでハイレベルな資格を持っている。

 この課目にはテキストがない。 私にはコンピューター用語が全く分らない。 先ずそれから覚えようと、学校のブックショップヘ行き、取扱いに関して初級の本を買った。 又、図書館からは、ウインドーズ95と言う、分厚い本を借りて読んだが、英文で書かれているので、いまひとつ理解出来ない。 やはり、日本語の本が必要だった。

 操作上でロンに質問すると、すぐに来てくれるが、何も言わずキーをポン、ポンと押して、用が済んだら、サッと向こうへ行ってしまう。 どのキーを押したのか、全く分らない。 ロンに苦情を言うと、「メモしておけ」と言った。 メモする間がないから言っているのである。 それに、暑い季節でもないのに、コンピュータールームは寒い程エアコンが利いている。 この中での連続四時間の授業は身にこたえた。

「計測機器」の課目は電子科クラスと再び合同授業となった。 久し振りに気の合うクラスメイツと一緒に勉強が出来、懐かしい気持ちで一杯となった。

 教官はジム、ロン、ダイアンの三人が担当した。 理論はジムが教え、ロンとダイアンは計器類の取扱いを担当した。 全研修生はわずか十五名である。 随分ぜいたくな担当プログラムだなと思った。

[クラスメイツ、あれこれ]

 理論の方で三つのテストがあった。 マークはその内二つも欠点を取り、前の分を合せると五つになった。  再テストを受けて消化していかないから、増えるばかりである。 ところが、彼は少しも気にしていないのだ。

 技術課のオフィスにバーバラと言う若い女性が働いていた。 彼女は中国系とイギリス系の混血で、なかなかの美人である。 マークは彼女に夢中になった。 かねてから、それを知っていた、堅物のジム教官は、日頃からマークには好意的でなかった。 授業中のある時、バーバラの話題となった。 そして、マークに向かって「彼女は君にはやらないよ」と、自分が彼女の父親にでもなったような言い方をした。 私は冗談で言ったのだと思い、彼の顔を見上げた。 笑み一つなく真剣そのものだった。 私は一瞬「ドキッ」として、マークを見ると、彼は二コ二コ笑っていた。 すかさず妻滞者のブラッドは「私が代わりに貰う」と言った。 クラス内にドッと笑い声が起こり、張詰めていた緊張が解された。

 ブラッドは何時も気難しい顔をしているが、時々突飛な事を言ってはクラス内を沸かしていた。 スピーチのときオーナービルダーの話をしたのは、彼だった。

 私達の電気科クラスでは配線工事の実習中であった。 電子科クラスでは「交流の基礎」のテストが行われていた。 気難しいブラッドが突然立ち上がって「もう、こんなテストなんか、やりたくない」と言い、机を叩き、答案用紙を白紙のまま投出して外へ出て行ったそうだ。 居合わせたクラスメイツ達も、かなり驚いたようで、口々にその時の模様を語っていた。

 担当教官は、ロンだった。 彼は、おとなしい性格である。 突然の出来事で、誰よりもビックリし、彼の行動を見守っていたそうである。

 ブラッドはそれ以来、もう二度とクラスヘは姿を現わさなかった。

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2006年9月27日 (水)

42 テストの重圧

[テストの重圧]

 私は電気が得意だから良い。 でも他のクラスメイツは、転職の為に仕方なく受講している。今のところ、数学や電気理論は中学で習った基礎知識程度であるが、もし電気関係が好きでなかったら、随分勉強が苦痛となるであろう。

 次のテストでは不合格者が数人出た。 その中にヘアードレッサーのマークがいた。 彼は、いつも口癖のように、「このコースは受講するだけで全員合格する」と、言っていた。 もしそれが本当なら、「外国人で、しかも英語のハンディがある私にとって、有難いな」と思った。

 彼は以前、少しの期間だったが、シドニーのTAFEカレッジで、ヘアードレッサーの講師をしたと言う。 そこの校風がそうだったのかも知れないが、テスト前でも余り勉強をしていない様子だった。

 テストの点数は、たいてい一解答が一点で、計三十問題だと二十六点で合格、計十一問題だと、九解答で合格の時もあり、百点満点に直すと、八十点以上となる。

 一つの間違いが合格、不合格の分岐となり要注意である。 英語のハンディから私は、答案用紙をいつも三回見直した。 他の生徒は早く済まし、サッと教室から出て行く、私は何時も遅くなり、最終となったが、どの教官もそれを待っていてくれた。

 テストは不合格になったら再テストが受けられる。 再テストが不合格になった場合、もう一度、再テストが受けられ、それでも駄目なら、もう一度だけ受けられる。 これで大抵の生徒はパスをする。 努力して勉強を続けるか、又は諦めて学校を去るかの選択を見ているようである。

 教官はテストの採点をしてエンマ帳に記入する。 それから答案用紙を生徒に、一時的に返還され、解答合せをするのである。 珍しいことは、毎回、全生徒の前で、個々の点数を読み上げるのだ。 それで他の生徒にも、はっきりと合格、不合格が分ってしまう。

 パスをし、声を出して喜ぶ人、またガッカリしている人、と表情は様々である。 でも欠点と採っても、そうショックではないらしく、ケロッとしている。

 ダイアン担当のクラスでもテストがあった。 私は、てっきり満点を取ったと喜んでいた。 ところが、どういう訳か、このときに限って回答合せがない。 彼女に確かめると、三つも間違っていたと言う。 四つで不合格、非常に危なかった。

彼女は「日本人は英語力不足があるから」と言った。 「確かに、それはある。でも今回のテストは、そう高度な英語力を必要としなかった」と私は言い返した。 彼女の口ぶりから、私以外に日本人を担当した経験がありそうだった。

トムの成績が良くない。 ダイアンは彼の側に座り、付き切りで教えている。 しかし、どうもうまく理解出来ないようであった。

 またビルは相変わらず、彼女と口喧嘩を繰返していた。 「僕は今までのテストはすべて合格している」と食って掛かった。 そう言われると、彼女は何も言えず、黙ってしまった。

 次のテストでは優秀なマーカスが欠点を取った。 彼は非常にショッキングな顔をしていた。 ビルも今回初めて欠点を取り、他にも数名いた。 運良く私はギリギリでパスをした。 試験問題が難解となりパスするのが難しくなってきた。

トムは、もうクラスヘ顔を見せなくなってしまった。 ダイアン教官の努力も実らなかったようだ。

 第十四週目に入った。 実技は、「工作機械」である。 旋盤とフライス盤は工業高校時代に使用したことがあった。 あれから、三十五年になるが、それらの機械は、ほとんどモデルチェンジはされていない。 この分野では、その必要がないのかも知れぬ。

 前と同じ教官が現われた。 プログラムに書かれた名と違っている。 研修生はお互い顔を見合わせながら、嫌な表情をした。 彼は上部からの命令で、今回も担当すると告げた。

 彼自身、研修生から嫌われていることを知っている。 私は彼の教育方針は間違っていないと思っている。 学力や技能の向上だけでなく、厳しさや規律も、教育の一環であって、人間は張詰めた緊張感がないと、脳細胞に旨くインプットしていかない。 テストも同じで、もしそれがなかったら、おそらく勉強はしないだろう。 工場内では、特に気の緩みが事故につながる。 若い人達は惰性に流され、気ままを言っているのである。

 電気科だけの実習課目で、「コード、ケーブルの応用」は、ダイアンが担当した。 彼女は、この学校へ来る前は、電気業界の現場で仕事をしていた。 女性には珍しく配線工事が出来、作業中には何度も感電の経験をしたそうだ。

 この実習では一人ずつ、ベニヤ板の上に、ケーブルと器具を取付け配線していく、私の得意とする作業である。 他の生徒は初めてで、やり方が分らず、もたもたしていた。 そして、私の側へやって来ては、そっくりコピーを始めた。

 ビルは仕事が見付かったとの理由で、先週学校を辞めた。 優秀だったマーカスも、クラスに来なくなってしまった。 テストの欠点が、かなりショックだったらしい。 真面目な性格なので、余計に落込んでしまったようだ。 彼には、授業を続けるよう説得してやりたかったが、その方法が分らなかった。

 これで電気の生徒は私を含め六人となってしまった。 それに、あと二人が出欠を繰返している。 彼等も、もうすぐ来なくなってしまうだろう。

 この課目で、二度テストがあった。 配電工事に関してのマルチチョイスの問題で、私はなんとか欠点を逃れた。 キイウイのジェミニーだけが、満点を取った。

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2006年9月25日 (月)

41 実習所の規律

[実習工場の規律]

「手仕上げと動力工具」の実技はプログラムに書かれていた教官と違っていた。 前の教官はオートバイのレーサーで、元オーストラリアのチャンピオンにもなったそうだ。 大きな競技大会が近付いたので、その準備の為に学校を辞めてしまったと言う。

 新教官は三十二才の男性で、頭とマユに毛がなくツルツル、ちょうどタコ入道みたいで、何となく不気味だった。 後になって分ったが、それは彼自身のファッションではなく自然な姿だったのである。

彼は元オーストラリア軍の陸上部隊にいた。 その後、シドニ-の技術系の学校で教官をし、つい最近、奥さんと共にゴールドコーストヘ引越しをして来た。

 軍隊時代の規律を、そのままクラスに適用させようと一生懸命だった。 時間厳守、授業態度、言葉使い等である。 ところが、私が当然だと思う事でも、若い人達には、それらが全く受け入れられないのだった。

 時は初夏、段々暑くなりかけていた。 分厚いオーバーロールに重たい安全靴、誰も着たくない、でも規則で実習場では必ず着用が義務づけられている。 本人の防災の為なのである。 もし着てなくて事故が発生すれば、担当教官の重大責任となる。 厳しくて当然なのに、その規律を守ろうとしないのだから、どうしようもない。

 彼もビルには、一目を置いていた。 ある午後の実習時間、彼はビルを、すごい剣幕で怒り出した。 「お前に言いたいことがある。 ちょっと、こっちへ来い」と言って、戸外へ連出した。 ビルはオーバーロールを着ていたから、それが理由ではない。 彼が何をしたのか、私にも全く分らなかった。 窓越しに見える二人、遠くて声は聞こえない、でも今にも殴リ合いになりそうだった。

 マーカスは十七才である。 礼儀正しく成績も良かった。 ところが、何故か彼から、度々注意をされていた。 その愚痴を他のクラスメイツに話しているのを、私は通りすがりに聞いたことがあった。

 私は誰よりも、年上だから、何か力になりたかった。 彼等の仲介をと考えたが、でも悲しいかな、適切な英語が出て来ない、それに、ここは外国だ、環境と習慣の違い、世代のギャップが余りにも大きすぎる。 妙に声を掛けて、違った受けとめ方をされると、逆効果にもなりかねない。 残念ながら、静観をすることにした。

[堅物教官の授業]

「直流の基礎」の課目の教官はジム、私より三つ年上である。 この学校へ来る前は、オーストラリア空軍で電子工学を教えていた。 両親はドイツ出身で、私の想像する、堅物で優秀なドイツ民族のイメージをそのまま表現していた。

 この学校で使う電気科、電子科のテキストの一部と問題集は彼が作ったもので、彼の著者名が印刷されていた。 題名「信頼性あるハンダ付け」の本は、理論物理学的にハンダ付けの原理と化学現象を詳しく解説していて、私はハンダ付けに関する専門書を見たのは、これが初めてだった。

 彼は段階的に念を押しながら教え、生徒が理解出来ないと次には進まなかった。 行儀の良くない生徒には非常に厳しく「君達、勉強する意思がなければ、外へ出なさい、真面目な人の邪魔になるから。 そして単位はないものと思いなさい」 

そう言われると、態度の悪い生徒でも、おとなしくなった。 彼には生徒全員が一目を置いていた。

 例の当局からのテスト回数が多くなってきた。 ジムはふと言った。 「君達がテストを嫌がる気持ちは良く分る。でも仕方がないのだ」と、要するに、彼が好んでテストをしているのでなく、政府からの指令であると言う。

「直流の基礎」のテキストは六章あって、テストは一章ごとにされ、この課目は四週間で習い終わる為、一週間に二度のこともあった。 「鉄は熱い内に打て」で、私にとって習った後すぐにテストがあり、忘れ易いのが多少なりと防げ好都合だった。

 教官ジムは、たくさんワークシー卜(問題集)をくれた。 これさえ完全にやれば合格点を取れることが分り、私は繰返し、繰返し勉強した。 英語力不足と年齢によるハンディキャップがあったから尚更である。 テスト問題は形を変えて、ほとんどこのワークシートから出た。しかも難問題は出ず、私は運良く合格点を取り続けた。

ジム教官は「外国人の貴方が、何故良い点数を取れるのか、不思議だ。 もし私が貴方の国へ行き、同じ立場となったら、そうはいかないだろう。 でも次のテストではどうなるかな?」そう言われると、「もっとがんばろう」とのファイトが沸く、私の精神状態は完全に中学生であった。

習いごと、特に学びは、まねびと云われ、常に純真な気持ち、幼児の心にならないと、頭に入って行かない、プライドがあり、高慢な態度では、学習出来ないと聞いたことがある。 でも年を取った者が童心になり過ぎるのも気持ちが悪く、ほどほどにすべきだ。 http://blog.with2.net/link.php?372614 クリックお願いします。筆者

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2006年9月22日 (金)

40 問題の研修生

[問題の研修生]

 生徒の欠席が目立ってきた。 三、四日休み、突然教室に戻って来ると、クラスメイツ達は珍しいからと、手を叩いて迎える。 本人達も、それを期待しているようでもある。

 特にトラブルの多い少年が二人いた。 トムとビルである。 トムは十七才で、元溶接の仕事をしていた。 先週までの溶接実習ではレイン教官のアシスタントをしていた。 材料の調達とか工具の準備等の手伝いである。 どうもそれが嫌だったのか、遅刻や欠席を繰返していた。

 彼と同じロッカーを使っていた生徒が二人いた。 トムがそのキーを持っていたので、彼が遅刻した時、着替えが出来ず右往左往、実習場で教官から何度も注意をされていた。ロッカーの鍵は自前だが、どこにでもある普通の∪型錠で、買っても、そう高くはない。

 私は彼等の隣を使っていた。 空ロッカーはいっぱいあるにも拘らず、それを繰返していた。 私には彼等の行動がまったく理解出来なかった。

 ほっそりして背の高いトム、気は優しいが、いつもオド、オドして自信のない態度である。 空気のいっぱい入ったゴムふうせんが、今にも弾けそうな、なにかのキッカケで重大なことを仕出かしそうな雰囲気だった。 女性教官ダイアンは特別彼には親身となっていた。

 前回のテストは非常に易しいかったのに、彼はパスをしなかったようだ。 彼の側に座って長い間、教えていた。

ビルはトムと対象的である。 十六才の彼、体格は小柄だが、がっしりしていて、マユ毛が濃く目はパッチリ、りりしい顔をしたハンサム少年である。

 テレビ映画、Xファイルの大ファンで、何となくスカーリー役の女優、ギリアン、アンダーソンに似ている。 私は彼をスカーリーと呼んだ。 すると、彼は、力を込めて、モルダー(相手男優の役名)だと訂正した。

休憩時間、若いクラスメイツ達は円陣を作り、日本でのお手玉(袋に小石を入れた)に良く似た物を持って来て、けまりのように足首で落とさないよう回し打ちをして遊んでいる。 これが最近流行しているらしい。 ビルはしきりに私をその仲間へ誘った。 彼は冷やかしでなく真面目に言うので、ついつい私もその気になった。 でもハッと我に返り断った。

彼の授業態度が良くない、陽気が度を越している。 物音を立てる、キョロ、キョロする、横を向いては、他の生徒と大声で話をする。 椅子に足を投出し寝そべり、コンピューター台の上に靴のまま両足を置いたりする。 信じられない程行儀が悪いのだ。

 私は白板の字が良く見えるようにと、何時も一番前の席に座る。 それで後ろで何が起きても分らない。 時々物音がするからと、振向く程度である。

 日本の学校でも同じだが、態度の良くない生徒は大抵後ろの席へ座る。 目立たない場所だと思っているが、実は教壇からは視界の良い地点である。 それで彼女の方も気が散り、邪魔になって教えてられないのだ。 ビルには、しょっちゅう注意をしていた。

 彼女が大声で、私の目の前で怒り出す。 私は、彼女の顔を見ないように下を向く、すると彼女から、私が叱られているような気になってきた。

 彼女は、ある程度、彼の態度には諦めていたのか、少し位では何も言わなくなった。 そして時々、彼の席へ行って冗談をも交わしていたのだ。 「なんだ、彼女はそんなに悪く思っていないのだ」 

そんな矢先、ある日の午前、突然、ダイアンのカナキリ声が教室に響き渡った。 ビルをにらみつけ、怒りだしたのだ。 彼が何をしたのか、定かでない。

 彼女は今までにない興奮状態で、ビルの席へと向かった。 そして今にも、彼に拳を下ろしそうとなった。 クラス内はシーンと静まり返り、緊張がみなぎった。 一方彼はソッポを向き、ニタニタ笑っている。 そんな彼の態度を見て、彼女は一段と激怒した。 声を震わせて、「両親に報告する」と言っている。 ビルも言葉を返した「もうここを辞め、クーランガッタ校へ転校する」と。 

そんなことを言ったのに、彼は知らぬ顔をして、次の日もやって来た。 http://blog.with2.net/link.php?372614 クリックお願いします。筆者

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2006年9月20日 (水)

39 溶接の実習

[溶接教室]

 溶接の実習は非常に危険だ。 濃い色ガラス付きヘルメットを被り、分厚い皮の手袋に重い皮製の前掛け、予防は万全だが、それでも危ない。 鋭い閃光、飛散る火花、灼熱と騒音、真赤になった鉄板が靴の上に落ちた。 ジューと音がし煙が出て異臭が辺りに立ち込めた。 作業靴には内側に鉄板が入っているので、つま先に当たっても怪我はない。 でも一瞬ヒャーとする。

 ガス溶接、電気溶接、ガス電気溶接、それにガス溶断他、合計十種類のトレーニングだった。 できた品物は必ずチェックを受けねばならなかった。 検査が通らないと、もう一度やり直しとなる。 それを何度も繰返し、やっとパスしたこともあった。

 私は不器用な方ではない、だが危険を感じ、つい臆病になってしまうのだ。 一人ずつエンマ帳に書込まれ、やらずには済ませられない。 チェックが済んだのに、記帳もれがあったりして、再びやり直しをさせられたこともあった。 かなり徹底した指導だったので研修生のテクニックは瞬く間に向上した。

 実習中のある日、私は個室になった溶接台にいた。 すると教官が一人の日本人を連れて来た。私より少し若い男性で、この学校へは観光業務の研修のため、日本から学生を数人連れて来たと言う。 私を見て「この学校の先生ですか?」と、質問した。 「生徒です」と言うと、妙な顔をされていた。 そうだ、自分の年をすっかり忘れていた。 私は生徒として通用しない年齢だったのだ。

 溶接実習の教官は二人いた。 レインとスティワートである。 レインは四十三才、背が高く太っている。 ソフトな話しぶりでおっとり型、芸術家を自称している。 金属溶接の作品を今製作中で、近々その展示会があるからと、案内書を手渡された。

 スティワートは六十才に近い、筋がね入りの体格、口髭をたくわえ、ドスの利いた声、馬に乗せたら、マカロニウェスタンで悪漢のボスという感じがする。 ところが見掛けとは違って非常に優しい教官で、物を大事に扱った。 「学校にある設備類はすべて国民の税金だ」と云って、率先して道具類を大切にし、使用済み材料を再び教材に使った。

[研修生の欠席]

 この頃から欠席する生徒が目立ち始めた。 全然クラスに顔を見せなくなったのが三人いる。 その中に若いオーストリアからの生徒がいた。 学校の駐車場でたびたび彼を見掛けた。 お父さんらしき人が、彼をポルシエ944でいつも送り迎えしていた。 珍しかったので、私は記憶していた。 彼の父親は息子を電気技術者にならせようと努力したが、成功しなかったようだ。

 二日に一度来る生徒、または何日か休んで、突然出席する生徒、タイプは様々である。

「電気の基礎」理論でテストがあった。 私達の電気科クラスの担任はダイアンと言う女性教官である。 彼女は四十才過ぎのガッシリした体格で、何時も頭のテッペンから発するような甲高い声を出した。 

彼女は手に、束になったテスト用紙を持っていた。 そして厳かに、念を押すようにして、「これは非常に重要なテストである」と言った。

 彼女の態度や言葉の調子から、今までのような軽いテストではないと言う。 クラス内に一瞬緊張がみなぎった。

 配られたテスト用紙の最初のページには書類を思わせる、条件、注意書きが印刷されていた。 二ページ目からは問題用紙で、もう一枚紙が配られ、これが解答用紙であった。 最初のページにクラス名と日付、名前を書きサインをする。 その下に、枠で囲まれた欄があって、何問題中、何解答でパスとあり、教官の署名場所があった。 なるほど、これはどこから見ても、当局発行の重要書類の感じだ。 私は、恐る、恐る、丁寧にページをめくった。

 出題内容はオームの法則の簡単な計算、それに回路図を説明した中から正解を選ぶ、 マルチチョイス、緊張の割に易しすぎ、少し拍子抜けがした。 このテストではほとんどの生徒が満点をとった。

 危険がいっぱいだった溶接実習が終わり、第十週目に入った。 実技は「手仕上げと動力工具の使い方」である。 理論は「直流の基礎」で、これにコンピューターの操作が加わった。 部品がいっぱい付いた回路盤を一人ずつ与えられ、これに電源を接続し、コンピューターの指令で電圧、電流、抵抗値の測定をする。 次の章へ移る前にコンピューターからテストをされる。 それが終らないと次に進めないようになっていた。 私は英文理解に時間が掛かり手間取った。 しかもコンピューターを使うのが初めてであった。

 若い人達は自宅にコンピューターを持っているのだろう、マウスを旨く操作し、カタ、カタ、カタと軽快な音、リズムカルにキーボードを叩いている。

 私はコンピューターには余り興味がない。 キーボードが嫌だし、操作のややこしさ、長時間モニターの前に座らねばならないから目にも悪いし、運動不足にもなる。 コンピューター関係の仕事をするならば別だが、今のところ、その考えはない。

 一般家庭へのコンピューター普及が急ピッチで進み、値投も安くなり、一人一台の時代がやって来る。 学校の授業で、わざわざコンピーターを使う程の内容でもないのに、使わせている。 それは将来の事を考え、機械に慣れさせる為であろう。

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2006年9月18日 (月)

38 実習始まる

クラスメイツ全員時間が超過し一日で終る予定が二日間となった。 いろんな仕事をしてきた人達が真に迫った体験談を発表する、このスキルは見事的中、大成功を修めた。

 担当教官ベティも非常に満足していた。

[災害防止と対処]

「職場での健康と安全」のニュージーランド出身の教官の名はスコットと言う。 この課目は総三十時間で、どのコースにも、最初に付いている。 彼は他の研修校でも教え、掛持ちをしているので非常に忙しい。

 どんな職場でも災害は発生する。 それを防止するには、雇用主も従業員も一丸となって対策を練る。 その方法とか、災害発生時の対処の仕方を学ぶのである。

 毎回スライドを写し、文章を読みながら解説した。 彼自身の手書きスライドで、所々分らないスペルがある。 他の生徒が筆記しているので、私もやってみたが、書くのに熱中すると、彼の話が聞取れない。途中でギブアップしてしまった。

 実習では、人工呼吸による救助テクニック、時間を掛けて徹底的に教え込まれた。

 この課目の終わりにテストがあった。 一人ずつ教室に呼出され、ダミー人形を使っての実技テストで、彼の指示通りの動作をし、質問に答え、それが得点となった。

 戸外では研修生全員の顔がこわばり、ピリピリして、その順番を待った。

 ペーパーテストは、マルチチョイスだった。 やま掛けをし、問題集ばかりをやった。 でもそこからは一切出なかった。 テストは返して貰えず、全く自信はなかった。

 その数週間後、クィーンズランド州の救急センターから、ファーストアイド(応急手当)のサティフィケイト(終了証書)が送られてきた。 かなり下駄を履かして貰ったと思われるが、パスをしたのだ。 オーストラリアで初めてのサティフィケイトを貰って非常に嬉しかった。

 マークに聞くと、まだ送られて来ないと言って、心配をしていた。

 この授業の終了前、スコット教官は、私達のクラス以外、すでに女性徒のクラスを受持っていた。 休憩時間、戸外のベンチで、彼が数人の女性徒と楽しく話し合っていた。

 それを三階の教室の窓から、マークが突然大声でヤジを飛ばしたのである。 スコット教官はこっちを見上げた。 マークの側にいた私はサッと彼から離れ、璧に隠れた。

「危ない、危ない、マークは時々バカなことをする。 そんなことをされて喜ぶ人間はいないのだ」 もしかしたら、それが原因なのかも知れないと思った。

 後日マークは宿題を忘れていたことが判明し、それを提出して、一件落着となった。

[実技授業]

 やがて六週目に入り、「金属溶接」の実習が始まった。 待ちに待った、実技の時間がやってきたのである。 理論の授業は「電気の基礎」、以前はこれを学ぶ為の準備で、いよいよ専門的な学習に入り、私の得意な分野となった。

 実技の溶接の授業は電気科と電気科のクラスが別々になってしまった。 使用道具類の数不足、または研修生の監督を容易にする為であろう。 私が、今まで仲間だった年配連中は、すべて電子科のクラスで、彼等とはしばらくのお別れとなった。

 電気科、最年長の私の次が、二十才の卜ニ-で、あとは十六才から十八才まで十二名がいる。 彼等とは余りにも、世代が違い過ぎ、私は、南海の孤島に取り残された感じがした。 電子クラスと一緒に勉強していた時は、どうして年配組が多く、電気クラスでは若い人達ばかりなのかと、気にも止めなかった。 ところが彼等がいなくなって初めて、何故そうなのかと真剣に考え出したのである。 そしてやっと、その理由が分った。

 電気の仕事は重労働で、資格を取るには、四年間のアプレンティスシップが必要、しかも低賃金、若い人でないとやっていけないシステムになっている。 これは前に述べた通りである。

 最初、私は、この制度のことは知らなかった。 コースを受講し、テストに合格した後、少し経験を積めば、ライセンスをくれるものとばかり思っていた。 電気工事とか器具の修理は一人でも出来る、ライセンスが手に入ったら自営するつもりだったのだ。 入学前、それに付いて聞く人もいなかったし、調べなかった。 

「しまった、私も電子科を選考すべきだった」と後悔したが遅い、今からの手続き変更は不可能である。

 でも実習時間は非常に楽しかった。 工業高校の授業以来、三十五年ぶりだった。 分厚いオーバーロール(ツナギ)と防災靴、これらは前に述べた学校からの支給品で、この時から着用を始めた。 まだ冬の終わり頃で、それを着ても、そう暑くはなかった。

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2006年9月15日 (金)

37 TAFEカレッジのプレセンテーション

第四章

TAFEカレッジの授業風景

[プレゼンテイション]

 このストーリーを抜粋し、二十分間の原稿にまとめた。 そして何事があろうと、前向きの姿勢、ポジィティブ(陽性)思考で望むことが必要であると締括った。

 これがうけた。クラスメイツから大拍手が沸き起こった。 特にベティ教官から絶賛を貰った。 チェックポイントは二十三項目あり、話の内容、喋り方、目の位置や態度等、ほとんどが五点満点、そしてスペシャルコメントが付記された。 「ポジティブ思考は非常に重要で、今、研修生には、それが必要である」と。

 フィリピン人のマルコは香港での歌手時代のスピーチだった。 彼の奥さんは香港生れの中国系で二人の女の子がいる。 大きなプロ用ミュージックアンプを教室に持込み、自動演奏システムの説明と香港のナイトクラブで実際に唄っているところをビデオテープで見せながら解説した。 二十分ではとても終らなかった。 でも彼はちょっとも気にしていなかった。 そして、これも大好評となった。

 元水道工事の仕事をしていた、ケアー、その前は、卵のふ化業をしていたそうだ。 当時着ていた、薄汚れたツナギによれよれの帽子、そして右手には先端に金輪の付いた長い棒を持っている。 隣の教室で着替え、突然現われたので、彼であることが分るのに、しばらく時間がかかった。 その後、彼は以前の仕事の、そのままを再現したのであった。

 金輪の付いた棒はエミュー(オーストラリアの国鳥)を捕える道具だった。 卵を巣から取り出す前にエミューを先ず取り押えねばならない。 この鳥はダチョウに似た大型で怖い形相をし、襲われると勝ち目がない。 スピーチと言うよりはパフォーマンス、彼は合格点を得る為に真剣そのものであった。

 何時も不機嫌なブラッドは、オーナービルダーになる方法、その手順に付いてのスピーチだった。 オーストラリアでは前に述べたように、ほとんどの職業にライセンスがいり、それがないと事業が出来ない。 大工さんも同様である。

 ところが自分の家を建てる場合には、そのライセンスがいらない。 しかし家は将来必ず売られることになり、買う人を保護するために、いろいろ規定が設けられている。 建ててから決められた年数を住むことが必要であるとか、その前に建築の基礎知識を教える短期コースを受講し、それにパスしなければならない。 ほとんどの人がパスするから、さほど難しくはないのであろう。 そしてパスしたあと市当局への書類の書き方、提出方法を段階的に解説した。 彼は、世の中の事はすべて気にいらない、と言う顔付きをしている。 法律関係のような難しい話では、ピッタリ合っているような気がした。

 オーストラリアには器用な人が多い。 古い家を安く買い、そこに住んで楽しみながら、数年かけて改修をする。 出来あがった頃に、それを売ると良い値で売れるのだ。 そして、再び古い家を買って引越しをする。 これを繰り返しながら財を成した人がいる。 しかも、これにはライセンスが要らず、水道、ガス、電気工事以外、また建て増しさえしなければ、認可を取る必要はない。 (1999年下旬法規改正、改修にも一時的なライセンスがいることになった)

 クィーンズランダーと呼ばれている種類の家がある。 高床式の木造家屋で二百年前の植民地時代からの工法でクィーンズランドに数多く見られることからそう呼ばれている。

 この州は低地の場所が多く時々半端じゃない程のドカ雨が降る。 カミナリを伴ってゴルフボール大のヒョウが降って車のフロントガラスを割る時もある。 この時、水はけが悪いので至る所で水害が発生する。 高床式はその理由と風通しが良く暑い地域での生活の知恵からであろう。 屋根の形とか周囲の飾り付けも独特で内装もかなり凝っている。 今これを建てたら随分高く付くだろう。 百年以上たっても保存状態の良い立派な建物は記念館として残されている。 古き良き時代の面影、その風情があって私も好きである。

 その3LDK程度の小さな家なら、分解せずにそのまま特製トレーラーに積んで移動でき、そんな仕事ばかりをしている業者がいる。 ここは道路が広いから出来るのだろうが、朝早く交通量の少ない時に引越しをする。 そのような家の付いた土地を買って、新しく建物を建てる場合、取り壊しに費用が掛かるから、家だけを売りに出す。

前に述べたアイスクリーム屋のヨハンもそうした。 彼は一刻も早くレストランの建築に取り掛かりたかったが、買い手が現われるまでイライラして待っていた。 暫くして、「やっと売れた」と云って喜んだ。 上、下の儲けとなったのである。

 最近私も興味が出て数軒、そんな家を見て回った。 少々手を入れて改修する必要はあるが、床などは品質の良いソリッドティンバー(一枚板)が使われていて、ピカピカに磨かれていた。 ちなみに、この売値は五千ドルが相場で、移動費は場所にもよるが、近くだと一万ドル程度である。 私も一度こんな家を買って、引越しの体験をしてみたいと思っている。Photo_35 Photo_36 Photo_37 (写真はクイーンズランダーの家々、写真をクリックすると少し大きくなります)

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2006年9月13日 (水)

36 レストランの終焉

 数年後、Hの話を再び聞いた。 彼はまだ、この国にいたのである。 勿論ビザが切れ、不法滞在だ。 シドニーの山道で、署へ戻る途中のパトカーが蛇行運転をしている前方の車に停車を命じた。 助手席には、若い日本人女性が乗っていて、血まみれになっていた。 彼女をナイフで突き差しながら運転していたのは、Hだった。 彼はその場で逮捕され、拘置所へ入れられた。

 その女性は、命は助かったものの、顔に大きなキズが出来てしまった。 当時のことだが、近々シドニー-で裁判があるので、親と一緒にこの国へ来ると。 これは、この女性の渡航手続きの世話をした呆社係員からの話であった。

 その話題の後、しばらくして、ある日本人青年がレストランヘ来た。 彼の友人がシドニーでHから車を買い、彼と二人で、この町まで、その車を運転してやって来た。 ここへ着いた途端、二人はポリスに逮捕された。 彼の車は盗難車だったからである。 Hが捕まる前、彼からその車を買ったそうだ。

 二人は警察で厳しい取調べを受けた。 ここのポリスマン、その行為が信じられなかったが、彼の友人は、ピストルの柄で頭を小突かれながら尋問を受けたと云う。 Hから、車を買ったと言っても信用してくれないのだった。

 それで、「Hが車検証を、この私に預けていると言ったので、取りに来た」と言う。 彼も「そんな筈はない」と思っていたのか、半信半疑であった。 「Hなら、こんな事件を起こして、今、パラマッタの留置所にいるよ」と教えてあげた。 私がHから受けた被害は、後にも先にもこれだけだった。

 Hの犯行が余りにも残忍なので、麻薬常習者ではないかと、ポリスが彼の住んでいたシドニーの住居を捜索に行った。 すると、そこに、例の目付きのよくない友人がいたそうだ。 Hを逮捕したと伝えても、別に驚かなかったそうである。 この話が最後となり、Hの話題は一切聞かれなくなった。

[レストランの終焉]

 私が、ここでビジネスを始めて丸十三年、常にハプニングの連続だった。 でも日本とは文化も習慣、環境も違う異国、いろんな出来事があって当然、むしろそれを求めやってきたのではなかったのか。人生は一度きり、いろんな体験をする為にと。

 人間窮地に立たされると、それを切抜けようと努力をする。 結構スリルもある、闘志も沸く、良いアイデアも浮かぶものである。 落込んだ時もあったが、そんな時には、エキサイトする出来事も起きた。

 離婚問題で頭を悩ましていた頃、日本ではオーストラリアブームの最盛期、レストランの前の通りで、日本のテレビ局がクイズ番組をやったり、テレビ映画のロケーションをしたり、そんな時に男優、女優、スタッフが一同で食事に来てくれた。 プ□野球選手、プロゴルファー、相撲取り、昔懐かしい歌手、又、町へ来られたら必ず、私のレストランで食事をしてくれるアイドル歌手もいた。 幸運にも、他に日本食店がなかったからである。

 珍しい話では、ある若い元男性歌手、ある理由で、この町に来て、ほんの少しの期間だったが、レストランを手伝ってくれた。これも思い出の一つである。

 とうとう調子に乗って、テレビにも出演した。 こちらのテレビ局の取題を始め、日本のワイドショーとかインタビュー。 日本から送られてきた、それらのビデオを、後生大切に保存している。 それを観ると、ビジネスでは調子の良い事ばかりを言っている。 当時レストランが繁盛していたからで、時流に乗ったに過ぎない。 それにも拘らず、レストラン業では、成功出来なかった。

でも「終わり良ければ、すべてよし」と云う。 建物の取壊しが始まるまでの数年間、人の体裁も気にせず、一人でレストランを営業、その業務に心からエンジョイをした。

 レストラン業、十三年間はあっと言う間に過ぎ、目に見えて残ったものは何一つない。 でも経験だけは人一倍豊富になった。 そして心は強く逞しくなった。 今後どんな事態が起きようとも、ビクともしない。これが私の、今の財産である。

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(左の写真は思い出のレストラン、現在は新ビルで時計台がある)

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2006年9月11日 (月)

35 日本人の犯罪

[日本Photo_29人の犯罪]

 この国での事件、日本人の犯罪である。 私の最初の日本食店当時、夫婦で営業していると、ある日、日本人青年がやってきた。

「皿洗いでも、なんでも良い、仕事がしたい」と言う。 日本食店として、かなり忙しくなって来た頃で、渡りに船と、彼に働いて貰うことにした。

 彼の名はHと言う。 暫く働いて貰ったところ、真面目で仕事が早い「なかなか、いい青年やな」と、私達は話していた。(左の写真はサーファーズパラダイスのキャラバンパークに隣接した数々のハイライズマンション)

 時々、若い日本人男女がHに会いにやって来た。 男の方はイヤーピースをしていて、何とも言えない嫌な目付き、女の子の方も気になる表情をしていた。 過去になんらかの犯罪に拘ったか、もしくは今後なにか起こしそうな雰囲気の二人だった。 Hに彼等のような友達がいるとは信じられなかった。 「いやだな」と思いながらも、Hは良く働いてくれるので安心していた。

 ある時、Hを訪ねて、別の若い日本人女性がやって来た。 背が高くてなかなかの美人である。 店の正面、歩道に置かれていたテーブルで長い間話合っていた。 時々笑い声も聞こえ、まるで二人は、久しぶりに会った恋人同士のようだった。 「Hにあんな美人の彼女がいるとは知らなかったな」と私達は話した。

 二ケ月近くなって、Hは突然「シドニーヘ行くから、今日でここを辞めたい」と言った。 そして次の日、この彼女は、若い日本人女性を連れて来て、泣きながら話しだした。 「Hが昨日、この友人のスーツケースを持逃げした、Hが、どこへ行ったか知らないか?」 と聞くのだった。

 彼女の友人は昨日午後、ブリスベン空港へ着き、夕方彼女を頼って、ユニットを訪れた。 荷物のすべてを彼女の部屋に置き、二人で食事に出掛けた。 その間に彼女の持物と、この友人のスーツケースを持って逃げたと言うのだ。

「てっきり、Hは貴方の彼氏かと思った」と言ったら、「違う、部屋をシェアーしていただけ」と答えた。 「彼はシドニーヘ行くとしか言わなかった。 そこの滞在先は聞いていない」と言うと。 「今夜、自分のユニットに、もう一人の被害者も来るから、私達夫婦にも来て欲しい」と言う。 「まだ他にも被害者がいたの?」 と、私は尚、半信半疑だった。

[親の死角]

 閉店後、夫婦で彼女のユニットを訪れた。 部屋には、昼間来た友人女性と、もう一人の若い男性がいた。 良く見ると、私の店へ来たことのある、お客さんだった。 彼女は今シャワーに入っていて、待っているのだと言う。 待つ間に、彼から事情を聞いた。

 彼は、Hから車を買う条件に、あることを頼んだ。 それが旨くいき、車の代金を支払った。 昨日、その車をHが使いたいと言ったので、貸したと言うのだ。 どうもその車で、今シドニーヘ向かっている。

 その時、彼女がシャワーから出て来た。 バスタオルを巻いたままの姿、彼女には、この町で知合ったボーイフレンドがいるとのこと。

 それで、Hをどうするかとなった。 シドニーのレストランに以顔絵を貼ろうかとか、税関に頼んで、出国時に捕えて貰おうとか、いろいろ提案を出したが結局、良い方法が見付からず、その夜は解散した。 猫に鈴だったのである。

 被害に遭った彼が、Hに頼んだ犯罪となる違法行為、人前でバスタオルのまま出てきた彼女を見て、私達は、余り深入りすべきでないと感じた。

 私達夫婦はHからは、一切被害を受けていない。 今でもまだ、信じられないほどである。 実は年が開けると建物の取壊しが始まる。 次の場所が見付かるまで、少し時間があり、この期間に夫婦揃って、日本へ帰る計画をしていた。 その間、Hに防犯の為に自宅に住んで貰おうと、話をしていたのだった。 ところが途中で気が変わり、結局空き家にして帰ることにした。 しかしHには、その計画を伝えていたのである。

「これはやばい、Hは私達の住所、それに日本へ帰る日も知っている。シドニ-へ行くと言ったが、留守の間に戻って来るかも知れない?」 当時、家具も少なかったし、大切な物もなかったのに心配した。

 私達は隣、近所に防犯を頼み予定通り出発した。 そして門扉に大きな貼り紙をした。 そこには、こう書いた。 「Hよ、おまえがここへ来ることを知っている。 でも家の中には金目になるものは、何一つない。 入っても無駄である」と、私は事実を書いた。 近所の人は、日本語は読めない。 でもこの意味を知ったら、びっくりしたであろう。

 日本から帰って、先ず一番にこの貼り紙を外した。

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2006年9月 6日 (水)

34 防犯対策

Photo_28 [防犯対策]

 オーストラリア人は、防犯には、日頃から常に気を配っている。 安全はタダではない、他人任せでなく、自分で防ぐものとの習慣が、小さい頃から身に付いている。 そうすることで、計画的でない限り、たいていは妨止出来るからである。 私のレストラン前道路に女性ポリスが車を駐車した。 なかなか外に出てこないので車内を覗くと、一生懸命になってハンドルロックを掛けていた。ポリスでさえ注意をしなければならないのだ。 家の鍵を、二重のデッドロックにし、すべてのウインドーに格子入り窓枠を取付け、各部屋には防犯アラームのセンサーを設置、その防止策には余念がない。

 忘れ物をしたり、落し物をしたりすると、自分の責任であり、戻らない物と諦める人が多い。 私のレストランで忘れ物をして捜しに来る。 そして渡してあげる。 私に感謝はするが、それよりも自分がラッキーだったと喜ぶだけである。

 オーストラリア人はガーデン、パーティをよくする。 そして全員が庭に出ている間に空き巣に入られたりする。 また、友人を招待した場合、彼等の友人を連れてきたら、要注意である。 すっかり、その家の持物や内部講造を見ていく。 また、長期、家を留守にする場合も、余程信頼のおける人以外には、しゃべってはならない。 それに、セキュリティ(防犯)会社に留守を頼むのもよくない。 実際に泥棒と、ぐるになっていた盗難事件も発生しているからである。 そのようなことにでも、彼等は常に注意を払った生活をしているのだ。

 私は盗難後、自宅にデッドロックを追加し、窓にも格子入りインセクトスクリーン枠を取り付けた。 そして、セキュリティシステム(アラーム装置)も設置することにした。 ところで、この工事をする前に、あることを思い出した。

この地域では、たいてい家庭でのクッキングは電気である。 太いフィラメントが四連付いた立派なコンロが各家に付いている。 高層住宅が多く、電気はガスに比べて安全性が高いので、そうなったのだろう。 ところが電気は、煮物をした時、そのタイミングが取り難い、それで、ほとんどのレストランはプロパンガスにしている。 私のレストランでもそうだった。

 プロパンガスは電気に比べて、ずっと安い、良いのは分っているが、ガス管は床を通す大工事となり、随分高く付くと思っていた。 ところが、天井を通すことが分り、簡単で費用も安いと分かり、頼むことにした。

 ガス会社から工事人がやってきた。 どの家にも天井裏へはガレージの天井に六十センチ四方の入口が開けられ蓋が付いている。 私はその蓋を開け脚立を置いて準備をしていた。 家の外にボンベを二基置いて配管工事が始まった。

12ミリの銅パイプを、施工し始めた。  私はガレージ天井の入口下で待っていたのに、何時になっても、彼がやって来ない。 それで見に行くと、彼はすでに天井裏へ入っていた。 よく見ると、屋根瓦が二枚外され、そこが入口となっていた。「なんだ、屋根瓦は簡単にはずれるのだ!これはやばい、しかも天井板は石膏ボードで蹴れば簡単に穴があく、こちらの家は屋根が低く平屋建てが多い、屋根修理を装って空き巣が入る可能性が大である」と感じた。

 友人の紹介でセキュリティシステムの業者が見積りに来た。 彼の目付きを見て、以前のオーディオ店オーナーの顔を思い出したのである。

 私は各部屋ごとにセンサー(探知器)の設置を頼み、用心の為にと、天井裏にも一つ、しかも移動出来るように長いケーブルの付いた物を依頼した。

 そして次の週、工事をして貰う約束をした。 来る日も、来る日も、彼を待ったが、とうとう、彼は姿を現わさなかった。 彼は怒ってしまったようだった。

 注文泥棒と言う話を聞いた事がある。 自分が今、欲しい品物、高級車でも何でも、頼んでおけば手に入れてくれると言うのだ。 誰に頼むのか知らないが、これも笑い話ではない、実話なのである。パーティなどにやって来て、その家の持ち物をすっかり見ていくらしい。 (上の写真はポリスステイションからのアイテムとして盗難品も度々出品されるオークション会場、これらの品物は良いコンディションなので高い値が付く)

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2006年9月 4日 (月)

33 レストランに泥棒

[レストランに泥棒]

 余りにも、のんびり仕事をしていたので、レストランに二度、泥棒が入った。

 それ以前にも、朝、レストランヘ行くと、入口ドアーの格子ガラスが割られ、その破片が客席の一番奥まで、飛散っていた。 裏口の木製ドアーが蹴り破られ、大きな穴が開いていたこともある。 それが四、五回あったが、デッドロックだったので、すべて未遂に終った。 裏の格子窓から手を入れて、庖丁とかシャモジ類をすべて持って行かれたこともある。 これには困った。 仕事が出来ないのだ。 取りあえず家まで、間に合わせ用具を取りに帰り、オープンしたこともあった。 それは単なるいたずらではない、それらの品物は安いがすべて売れるからである。

 泥棒は、私がレストランに居るのに入った。 ランチタイムが終わり、閉店中の三時頃、少し眠くなってきたので、客席の長椅子で横になっていた。 何時の間にか、ぐっすり寝入ってしまったのである。 ドアーを閉め、クローズサインを出していた。 私が中に居たので鍵は掛けなかった。

 泥棒はドアーを開けて堂々と入り、熟睡している私を横目で見ながら、側を通り抜け、中央にある棚の上に置いてあったカバンの中から現金だけを抜取った。

 レジスターには触っていなかった。 この機械は数十年も前の骨董品で開けたとき、びっくりするような、騒音を発する。 入口のドアーが少し開き、風が通り抜けているのに気がつき目を覚ました。 二十分程の出来事であった。

 その三ケ月後、ランチタイム終了直後、すぐに戻るからと、ドアーは閉めたが、カギをせず二階のトイレヘ行った。 前の件があったので、「やはりカギをすべきだったかな」と思い、急いで戻ってきた。 虫の知らせだった。 カバンを確認したら消えていた。 時間にしてわずか三分間だった。  私は車道に飛出し、駐車中の車の中に人がいたので、彼に事態を伝えたところ、「今、黒いバッグを脇に抱えた若い女性が路地から出て来て、道路を横切った」と言った。 私は辺りを見た、でもそれらしき女性は見当らない。 まだ時間は、たっていないから遠くへは行ってないはず、でも影も形も見えなかった。

 ポリスに報告したあと、通りにあるゴミ箱を開けて中を調べた。 現金だけを抜き取り、カバンは捨てていると思ったからだ。 その中に大切な書類が入っている。 それらを無くすと、後の手続きが面倒なのだ。

 レストランのネーム入り白衣を着て、歩道に置いているゴミ箱を片端から開け、中を覗き込んでいる。 そんな私の姿を見て、バスの乗客、町を歩いていた人々は、一体どのように思ったであろうか? 私は頭に血が昇って恥ずかしさは感じなかった。

 レストラン同辺の道路、三キロメートル程のゴミ箱を徹底的に調べた。 途中大きな川があって橋が掛かっている。 そこに投げ込まれていたら最後である。 そうでないことを祈りつつ捜し回った。 そして、とうとう見付ける事が出来ず諦めて帰って来た。

 レストランの真向い、例の瓦礫の山を隠した板塀がある。 もしかしたらと見に行った。 塀の下の隙間、草むらの中に肩掛けの紐を発見した。 それを引っ張った、カバンがずるずると現われた。 やはり中の現金だけがなく、書類等はそっくり残っていた。 それに有難いことに封筒に入れていた別の現金がそのままあった。 この国では、封筒に現金を入れる習慣がない。 とりあえず「ホッ」と胸を撫で下ろした。

 泥棒は、レストランの内部事情に詳しい、私の行動を良く知った、前回と同一人物である。 盗られた直後、私は運悪く、別の方角へ走った。 神出危没、短時間にて旨く仕事をした泥棒の方に賦があり、盗られるハメとなった私の方に不徳があったようだ。

 車の中に、まだ、先程の人がいた。 彼に頼んでポリスステイションまで同行して貰った。 今度は証人が一緒だ、しかし前回同様、取合ってくれなかった。

[うっかりの被害]

 でも、こんな愉快な出来事もあった。 昼の閉店後、いつものように、準備をしていたら、流暢な日本語を話すオーストラリア人の青年が入ってきた。 見ると彼の手に、うどんと書かれた、のぼりを持っている。 良く見るとレストラン正面のデコレーションであった。

 「今、これを持って、町の中を練り歩いていた若者がいた。 ここの物だとすぐに分ったので、取戻してきた」と、親切に届けてくれたのであった。 私は丁寧にお礼を述べ受取った。 のぼりを持って行かれたのに全く気が付かなかった。 それにしても、のぼりを持って町中を練り歩いていた若者達に感謝せねばならない。日本での、ちんどん屋さんのように、最高に良い宣伝となったからだ。

 二度食べ逃げがあった。 帰り際にレジスターまで来て、声を掛けてくれるだろうと安心し、後ろ向きでも客席が写るカガミを見ながら食器を洗っていた。 すると、スーと幽霊のように、消えてしまった。 まさか、日本人青年がやるとは思わなかった。

 もう一つは、中年のオーストラリア女性の二人連れ、メニューボードを見て、一番、高い料理を注文した。 食べ終わった後、二人で長い間、大きな声で話をしていた。 私は野菜を切っていて、ふと顔を上げたら、何時の間にか、二人がテーブルから居なくなっていた。 急いで表に飛出し、通りを捜したが、すでに遅かった。 一人でやっていると、どうしても手薄で、このようなハプニングが度々起きる。

 私の、これまでの話から、この地域は犯罪が多発し、恐ろしい所との印象を受ける。 では、オーストラリア人は、それについて、どのように考えているのだろうか?

 自宅の盗難については、前に詳しく述べたが、ここでは対処方法を考える。

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2006年9月 1日 (金)

32 パニック営業

            [一人で2営業]

 数ヶ月が過ぎ、事情があってウェイターが辞めることになった。 いつものように貼り紙をしたが、今度ばかりはなかなか見付からなかった。

 私は落語の一節を思い出した。 「船場の大将、人を半分に減らしたが、商売がやっていける。 それでその半分にしたところ、それでも旨くやっていける。 とうとう自分一人となってしまった。 しばらくして、彼も、どこかへ行ってしまった」

 私はどこへも行かないが、今度は一人でやってみようと考えた。 その内に人も見付かるだろうと思ったからである。 それには店内を少々改造する必要があった。 客席とキッチンの仕切りを取りはらい、カウンター台を取付け、レジスターを置いた。 出来た食事は、そこまで、お客さんに取りに来て貰い、それと引替えに代金をいただく、お水とお茶はカウンター台に載せ、セルフサービスとした。 カッコよく、卓上に置いていたメニ-ブックをやめ、カウンター台の頭上に写真入りの大きなメニーボードを取り付けた。 この工事もすべて自分でやった。

 これで私は、お客さんを見ながら、クッキングや洗い物が出来る。 お客さんからも、こちらの行動を一部始終見ることが出来る。 これはどこのレストランでもやっているから、珍しくない。 変なのは、何時も私が、唯一人で仕事をしていることである。 世間体さえ捨てれば良い。 私はこの町に住んで長いが、今でも、自分は旅行中だと思っている。 「旅の恥は掛け捨て」と、言われている。 旅行者の中には、人様に迷惑を掛ける行為をして、そう思っている人がいる。 でもそれは誤り、本当の恥ではない。

 数年前のような忙しさはなくなった。 お客さんも、ほとんどが常連の人達だ。 仕込みと準備さえ完璧にしておけば、調理による時間的な迷惑はかけない。

 これが大変うけた。 そしてなによりも嬉しいのは、今まで従業員に渡していた給料がそっくり残ることであった。

[パニック状態]

 ところが、時々、ドカッとお客さんが入ることがある。 近くのホテルにツアー客がたくさん滞在し、自由行動の日で、食事が付いていない時であった。 ツアーの種類がまちまちなので、その曜日は決まっていない。 今までに予想を立て、手伝いを増やして待っていたが、すべて的が外れた。 そんな時、すぐに来てくれる助人もいないから、成り行きまかせにしていたのである。

 満席になった時、それは、それは大変である。 パニック状態になりながらも、急いで入口に走って行き、ドアーを閉め、カンバンを吊るす。 それには「勝手ながら、ただいま、満席に付き、しばらく閉店させて頂きます」と書いてある。 人間の心理で、中に人が、いっぱい居ると、余計に入りたくなるものである。

 大きく日本語で書き、目の位置に吊り下げていた。 それでも気付かず入ってこようとする。 こんな場合、丁寧にお断わりをし、近くにある日本レストランを紹介した。 でも、こんな時に限って、常連さんがやって来る。 こちらは断われないので非常に困った。

 満席となったお客さんに向かって、「今日は事情があって、一人でやっています。 近くに日本食レストランが数軒あります。 お急ぎの方々は、そちらの方へお願いします。 その場所はここと、ここです」と告げた。 私は少しでも、余所へ行って貰った方が有難い。 でもそう言うと、返って出て行く人がいないことに気付いた。

 納得して待っていてくれる、私は落着いて、お客さん全員の注文を聞く、時には、私の都合で注文を決めてもらったりする。 うどんかラーメンがほとんどで、すでに準備が整っているから、作り出したら早い。 客席からキッチンが丸見えなので、私が一生懸命にやっている姿を見て安心している。

 台風一過、昔のように、お客さんが外で待っていて、入れ代わることはなくなった。時間にして、忙しいのは一時間程、その後は、入っても数人である。 日本人客は食べ終わると、すぐに出て行くから助かる、それに食器類はカウンターまで運んでくれる。

 お客さんの中には、私が一人でやっているのを見兼ね、気の毒に思ったのか、「手伝いましょうか?」と、親切に言ってくれる人もいる。 私は丁寧にお断わりをし、山となった食器類の洗い物を始める。 それが終るまで数時間はかかる。 でも売上げが良いので、全然苦にならない。

 それに比べ、暇な時は困る。 準備した材料が、いたみ出す。 もったいないが捨てるしか方法がない。 レストランの外に出て、通りを見ると、しんと静まり、通りに人気がまったく居ないことに気付く、こんな夜は早く閉める事にしている。 今までの経験から、待っていても無駄なのである。 ところがそんな夜に限って、閉めた後に常連さんがやって来て、後日叱られたりする。

 レントが安くなったし、使用人の給料の心配もいらないから、何のプレッシャーも掛からない。 人が何と言おうと、こんなレストランの営業方法もあったのだと、私は心の底から、この仕事をエンジョイした。

 冬場の暇な時期、ニュージーランドヘスキーに出掛けた。 レストランの貼り紙には、はっきりとその理由を記載し、一週間休業した。 落語で「一人になったらどこかへ行ってしまった」が実現したのだ。

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2006年8月25日 (金)

31 レストラン再開

アレンは担当員女性の一人と、些細なことで口喧嘩を始めた。彼女は怒って部屋から出ていった。 あとに残ったソフトな担当員にアレンは言った。 「私は今、ビジネスを買うつもりで、あちこちの不動産会社を訪れている。 でも彼女のように訳の分らぬ事を言う人は初めてだ。 非常にナスティ(嫌な女性)である」と。 ソフト女性はなにも言わなかったが、私は彼女の顔にチラッと「その通りなのよ」との表情をすかさず読取った。 一緒に仕事はしているが、彼女達にもお互いに確執があったのである。

このソフト女性の妹さんが、この三年後、総選挙でクィーンズランド州から立候補、国会議員に当選した。 レイシズム(民族主義)を唱え、ナチの復活だと騒がれた、例のワンネイションパーティの党首である。 オーストラリアに住むアジア系の人々から一大非難を浴びたが、イギリス系の人達の中には彼等に対して言いたかったこと、喉まで出、つかえていた鬱憤の代弁者となった。 アジア系の人々にも反省せねばならぬ点もある。 彼女の出現でお互い腫れ物から少しは膿みを出し合えた。 結果としては良かったのではないかと思う。 しかし反感の方が強く、1998年10月の総選挙では落選してしまった。

彼女は何度も部屋を出入りした。 ランドロードと電話で、掛合っていたのである。ランドロードとしても、今、私に出らると、次のテナントを見付けるのが難しい。 町中の空店舗のことも知っている。 それにレストランは設備を外したら、無残な姿となり、次に入るテナントは相当内装費がかかる。それでリースが短いと借り手がないのだ。 一時間近くランドロードとネゴシエイションが続いた。 そしてとうとう、ランドロードから「オーケー」の返事を得た。 私の言い分がすべて通ったのだ。

 私は気分が良かった。 今まで、この不動産会社に抱いていた、鬱憤がすべて吹き飛んだ。 もし私一人でここに来ていたら、ここまで粘れなかっただろう、アレンが側にいたから気丈になれたのだ。

 レントは最高時の半分以下となり、将来値上げはしない。 しかも商売不振になれば、何時でも、こちらから店じまいが出来る。 以前の店と同様、建物の取壊しまで、続けることになりそうだ。

[キャンセルのキャンセル]

 アレンにお礼を言い、不動産会社の入口で別れた。 その足でキャンセルした許可類の取消しに出掛けた。

 この国独特の仕事の遅さが幸いして、簡単にキャンセルのキャンセルが出来た。 市当局のオフィサー、「それは、よくあることだから、保留にしていた」と言った。 私は、「エー」と驚いたが、それはどうでも良い。 なにもかも旨くいったのである。

 次の日は材料の調達であった。 肉、シーフード、野菜類、すぐに手に入る物もあれば、数日かかる物もある。 肉は一旦凍らせて、スライスをし、もう一度冷凍する。

 通常、百キロ近く仕入れて、その準備をする。 この国では肉を薄引きする習慣がない、業者に頼むと非常に高く付く、それでいつも自分でスライスするのだ。

 すべて準備が整ったのは、一週間後だった。 同時にレストラン再開の貼り紙と求人広告もしていた。 ウェイターがすぐに見付かった。 そして私は、非常に新鮮な気持ちで、次の週から再オープンしたのであった。

 一週間と少しのブランクだったが、すぐに何時もの調子に戻り、客の入り具合も、まったく同じで、何の影響もなかった。

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2006年8月24日 (木)

30 買い手が逃げた!

[買い手が逃げた!]

 約束の十時が過ぎた。 ところが彼も不動産会社の担当者も現われない。 「おかしいな、確か今日のはずだったが? 私は一瞬、日時が間違っているのでないか」と思った。

 十一時過ぎ、電話が入った。 それは不動産会社からだった。 「ハプニングが起きた、すぐにこちらまで来てほしい」との知らせだ。 私は何がどうなったのか、さっぱり分らない。 でも今日が約束の日に間違いないことだけは分った。

 急いで駆付けると、担当員は、困った顔をして、「今日彼はニュージーランドヘ帰ってしまった」と告げた。

 私には、まだピンとこない。 「彼は又、こちらへ戻って来るのでしょう?」すると、「彼はもう戻らない」と答える。 そこで、やっと私は事態が飲込めた。

 私は、明日もう一度、ここへ来る約束をして、ひとまず家に帰ることにした。 そして、友人のアレンに、この出来事を伝えた。

 あくる日、アレンと一緒に不動産会社へ乗込んだ。 一人だと、担当員に巻かれてしまいそうだったからである。

 会社に着くと、いつもの女性担当員二人が出てきた。 普段と違いニコニコし、非常に愛想が良かった。 女性でも、男性以上にやり手で、強引な仕事ぶりで有名である。 私が一人で来ると思っていたのか、アレンを見て、突然笑顔が消え、ムッとなった。

「私は英語力に問題があるので、彼に通訳として来て貰った」と告げたら、しかたがないなとの表情で納得した。

 事務室に入るやいなや、二人は昨日の出来事を、しゃべり始めた。

 キイウイ(ニュージーランド人)の彼は、デポジット(手付け金)を少し入れて、ランドロード代理の、この会社と借り契約を結んだ。 本来、私にリース権があれば、その相手となる。 彼はコンディション(条件)を入れさせた。 「但し、銀行からの融資が受けられたなら」と。 この国では、このような条件を付けることが多い。 第三者の意一つで、物事が決着するのである。

 彼は銀行から、融資を断わられ、昨日帰国したのだった。 その一筆があったから、デポジットも彼に返したそうである。

 そこで慌てたのは、この二人だった。 まさか銀行が断って来るとは思っていなかったからである。

 私は、あっけにとられてしまった。 彼がどのようなモーゲジ(担保物件)を提示したか知らない。 テナントとして入る場合、その店舗は担保物件とはならない。

 オーストラリアとニュ-ジーランドは同じコモンウェ-ルス(英連邦)の国であり、仲の良い兄弟のようだ。 第一次大戦時、トルコのガリボリで一緒に戦い激戦となったことから、アンザックデイと言う記念日も作られている。 したがって、ニュ-ジーランド人には、銀行も非常に寛大だと聞いていた。 しかしビジネスとなると話は違う。 いずれにしても、おそまつなのは、この二人である。 目先の欲にとらわれ、バカな一筆を入れさせたものだ。

 私の売り値、たいした金額ではない。 たったの九千ドルだったのである。

[再オープン]

「それで、このあと、どうするか?」と、尋ねた。 「まだ、どうするか、決めていない」と私は答えた。 次の買手が見付かるまで、営業する方法もあるが、再開するには、時間が掛かる。 昨日、キャンセルしたものを、もう一度、キャンセルしなければならない、しかし、それらを迅速に元に戻してくれる保障はない。

 材料の仕込みも、その注文から始めなければならない。これもすぐに納品してくれそうにない。 人を当てにする場合、この国では、まず予定が立たたないのである。

 店内と外側のメニーボードの取付けとか、デコレーション、これは自分がするから、すぐ出来る。 営業開始まで二週間と計算した。

「こうなったのは、明らかに貴方達の責任である。 再オープンするには、時間がかかる。 少なくとも二週間が必要である。 それには条件がある。 二週間の無料レント、それにマネージメント費、シティレイツを含めたレントを、この金額にし、もちろん将来値上げをしないこと、これらが聞き入れなければ、これから即刻レストランヘ行って店舗内設備すべての取外しをする」。 一担店終していると強気になれる。

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2006年8月23日 (水)

29 レストランの買主

 新ランドロードは将来、この建物を取壊し、新しいビルを建てる計画をしている。 それを、いつ頃から始めるのか、まだ知らせて来ない。

 以前の店とそっくりの状況になってきた。 前と同様、店終いしたら、椅子、テーブル等、設備器具すべて持出さねばならない。 中型トラックに一杯となるだろう。それらを家に置くのは好まない。 長いリースが取れる空店舗を見付けて、この設備を移動し、しばらく営業して、ビジネスを売ることも考えられる。

ところがレストランを開店させるには、水道施設、下水槽、換気設備の規則があり、それに合致しないと許可が降りない。 その設備の為の立地条件の備わった空店舗を見付けねばならず、どこでも良いとはいかないのだ。 下水槽はレストラン専用が必要で、新しく設置すると非常に高い、イグゾートファン(換気装置)も、大掛りな設備がいり、工事費は両方で、数万ドルはかかる。

 ビジネスが売れれば問題はない。 でも、町中のほとんどのレストランが売りに出されている、簡単に買手が現われるとは思われないのだ。 移転をして買手が付かなかったら惨事である。 毎年値上げされるレントに悩まされ、同業者との大競争に巻込まれる。 もう一度、挑戦をしてみようとも思ったが、もう気がすすまなかった。

[レストラン設備の買主、現われる]

 なにか良い方法がないものかと考えていたところ、ある人が、「設備のすべてを、超安値にすれば売れる」と教えてくれた。

 私はマネージメントの不動産会社に、その買手を依頼した。 そうすると「ランドロードから二年間のリースを取り付けてもよい」と約束してくれた。

 私は喜んで、その買手を待った。 一ヶ月の間に、三人やって来た。 その中の一人、メキシコ系ニュージーランド人が非常に興味を持った。 「この付近には、メキシカン、レストランがない。 ニュージーランドでもレストランを経営していて、オーストラリアヘも進出したい」と言う。 なんとなく虫の好かない人物だったが、買主だからと気にしなかった。

 二日後、営業中に彼が一人でやって来て中の様子を見ていった。 そして三度目、不動産会社の担当員と共に、再びやって来た。 今度は、値段の交渉となった。

 私は二年間のリースは無視して設備品だけの値段を付けていた。 以前のドーナツ、ショップと同じリ-ス期間があって、それが延長になる可能性もある。 先の事は誰も分らないからである。 その買値と比べたら、ずっと安い値段だった。 ところが彼は、いろいろ難癖を付けては、更に値切ってきた。 こちらの足下を見たのである。

 私が突跳ねると執ように食い下がってきて、不動産会社担当員も、彼の側に回り、私に圧力を掛け始めた。

 私なら短期のリースは取らないし、何時ここから出ると言出すか分らない。 彼とリ-ス契約をすれば、最低でも二年間は確実にここに止まり、それにレントの値上げが期待出来る。リース文書作成費は家主が負担するらしいが、それは値上げ分で取り戻せる。

 彼等は出来るだけ、安く叩き、私を追い出そうとしていた。 「ではここを出て貰うことになるが」と担当員は、最後の切札を言った。

 私は頭がカッカッとなってきた。 薄情なものである。 私がここで商売をやって六年になる。 レントがどれだけ上がっても、毎月キッチリと支払った。 トラブルと言えば新聞記事だけ、それは私一人の責任ではない。 貴方の会社にも半分の責任がある。 調停役の立場にありながら、一方的に家主寄りだったからだ。 そのくせ先日ここへ来て、以前のランドロードの話になった時、「彼はひどいランドロードだった」なんて、今頃になって言出した。

 私は頭に血が上がると損得は考えない、「それなら設備品すべて持出す、しかも壁板も剥がし、持出せない物は使用出来ないよう、ぶっ壊す。 これらはすべて私の物である」 担当員は、サッと顔色を変えた。

 だがまてよ、私がここで喧嘩をしたら、お互いまずい結果となる。 価格の中間を取って話を決めた。 そして二週間後にテイクオーバーさせることにしたのである。

 私はレストランの正面に大きな張り紙をした。 英語と日本語で今までの御礼と、次はメキシカン、レストランとして再オープンされ、引続き尚一層の御愛顧をお願いします、と告げた。

受け渡しの日がやってきた。 私は朝早くからレストランへ来ていた。 材料等はすべて処分し、空になった冷蔵庫、冷凍庫はきれいに掃除をし、電源も切っていた。 キッチンと客席も掃除をし、清めておいた。 電気会社、ガス会社、電話局、それに市当局のフッドハイジーン(食物衛生許可証)も、本日付でキャンセルとなるよう手続きをし、用意万端整えていた。

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2006年8月22日 (火)

28 瓦礫の町

[瓦礫いっぱいの跡地]

 日本人に代わり現われた、東南アジア系投資家のブームも、やがて終わりに近付いていた。 レストラン向かい側のショッピングセンター、ホテル建築の為、古い建物を壊し始めていたが、突然それを中止してしまった。 瓦礫の山を板塀で囲んだが、中は丸見え、人はそれを見て、「中東の内戦地のようだ」と表現した。

 情緒に溢れ、賑やかだったマーケットも消滅した。 木々に囲まれ自然一杯のビアーガーデン、何時も生バンド演奏で楽しい雰囲気、私達夫婦も仕事帰り、しばしの憩いの場だった。 今は金網のフェンスに固まれ、殺風景な青空駐車場となっている。

 ホテル建築云々と掛声をかけ、本当にそうするつもりだったのか? あるいは、利ざやが目的の土地ころがしだったのか? 広い一等場所、十数年たった今も空地のままである。 一瞬にしてブームが過ぎ去り、その悪夢のような痕跡があちこちに残され、美しい海岸町の美観を損ねている。

 日本のある教育関係の会社は本当に高層ホテルを建てた。 さらに隣の空地にも建て増しをし、又、ゴルフ場も開発した。 地元への貢献度が非常に大きい。 これが真のビジネスマンの姿であろう。 地元に住む日本人としても誇りが持てる。

[ビジネスの難しさ]

 当時、日本から多くのビジネスを目的とした移住者がやって来た。 美しい海、川添いや運河添いに建てられたボート桟橋付の豪邸を見て、その環境の良さに、すっかり魅せられ、この地に住む人が多かった。 そして事業を始めるが、なかなか思い通りにはいかない。 ここでの商売の難しさを知るのであった。 

私のレストランヘ来た人で、この国の制度とか事情、家主やレントの問題等、この地域の厳しい点を教えてあげ、ビジネスを思い止まった人がいた。 又、同種の商売をしようとした人は、同業者を増やさない為に言っているのだと疑い、実行した人もいる。 でもビジネスを始めたら、すぐにそれが分ったはずだ。

 私のレストランヘ、日本の大会社の重役さんらしい立派な風貌の紳士が度々来られた。長い滞在で、何かビジネスを始めようとされている様子だった。 何気なく聞いてみると、詳しくは話されなかったが、大きな日本レストランを、少し離れた場所の繁華街に予定しているようだった。

 私はこの地でのビジネスの難しさを得々と話した。 でも彼は「会社の命令だから」と、言われた。 やがて完成、そのレストランの名を知った。日本の有名店だった。 豪華な内装を施し評判だったが、しばらくして、風の便りに、そのレストランの噂が伝わって来た。 どうも旨くいってないらしい。 そして数年後、廃業となってしまった。

 後日知ったが出資者は、ある日本の有名人で、大損害をしたと聞いた。 ここに長く住めば、その原因がすぐに分る。 この町の事情を知らない調査不足であった。

 私が、商売をやり始めた頃は、最初であり日本人観光客ブームに旨く便乗した。 でもブームはどれも長続きしない。 町の中に日本レストランがたくさん出来、値投を下げたりツアー客を入れたり、少なくなった日本人旅行客の取合い合戦を始めた。 大レストランでは、それをしないと維持出来ない。 それをされると小さなレストランには客がまわって来ない。 共存共栄どころか、お互い潰し合いである。

[老後の生活の町]

 この町の人口は、1998年度で22万6千人。ここに住む人々の半数以上は高齢者でリタイヤした人々である。 若い頃、大都市で働き、老後は気候と環境の良いこの地域に引越し、住むのが夢だと言う。 自宅は持っているが、たいていは年金生活者で、その支給額ではレストランでの食事は高すぎるのである。

 リゾー卜地域なのでレストランの数が非常に多い。 年金生活者にもレストランヘ来て貰おうと苦心惨たんし、出来るだけ値投を下げる。 でも人件費とかレントが高すぎるので限界がある。 ほとんどのレストランは収支がトントンだと聞いている。 赤字さえ出さなければ良い方だと言うのである。

 私の知人で、一流日本レストランのマネージャーがいた。 「ツアー客を入れても赤字、リース契約があるから、クローズも出来ない。 バックが大きいので維持はしているが、肩身の狭い思いがする」と言った。 ちなみに、そこのレントは、私のレストランの十三倍だった。 場所の良さ、広さから、それがここでの相場である。 いずれにしても、レント及び、従業員の給料を得る為のビジネスとなりかねないのである。

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2006年8月21日 (月)

27 ランドロードの破産

[ランドロードの破産]

 そうこうする中、一年以上たった。 もうすっかり、新聞記事の件も忘れていた頃、マネージメントの不動産会社から一通の手紙が届いた。 「随分遅い、報復だな?」と、恐る恐る封を切った。 それには「ランドロードが、新しく代わった」と書かれていた。

 新ランドロードには大手ファイナンス(融資)会社がなっていた。 しばらくして、この経緯に付いての情報が入った。

 例のランドロードは、新事業の為、この建物を担保にして融資を受けた。 聞くところによると農場を買ったそうだが、その経営がうまくいかず破産、この建物はファイナンス会社の物件となってしまったのだ。

 二年前、この建物を買いたいと言った人を、私は知っている。 その人は、12ミリオンドルで買いたかった。 ところがランドロードは15ミリオンドルならば売ると断わった。 当時は地価が最高値の頃で、ランドロードは非常に強気だった。 その後、土地価格は下がり始め、この建物の担保額も3ミリオンとなってしまった。 私の新聞記事が出た頃、家主は新事業の資金繰りと事業に四苦八苦、自分の事で精一杯、私に報復などしている場合ではなかったのだ。

 ファイナンス会社はこの建物を3.5ミリオンですぐに売りに出した。 日本人投資家、地上屋がすでに、この町から去リ、土地ブームが下火になった頃、韓国、台湾、香港、シンガポールから大勢の旅行客が押寄せた。 その中に投資家がいて、値の下がった物件を次々と買い始めた。 今度は以前のような高値ブームにはならない。 彼等は最安値で一等地が手に入ったのである。 私のレストランの建物も、シンガポールの資産家が3ミリオンでファイナンス会社から買った。 私がここでレストランをしている間に、三人もの持ち主が替わったことになる。

 私はリ-スの延長を申し込んでいたが、こんな事情で遅れていたのだ。 もうかれこれ二年近くになり、すでに前のリ-スは切れていた。

 持ち主がファイナンス会社に代わった後、リースの回答をしてきた。 この時、私は、ソリシターを代え、これで四人目であった。 リンダと言う、綺麗で品のある中年女性、 行きつけの散髪屋さんから、彼女の事を聞いた。 「仕事熱心で、しかも手数料は通常」と評判が良い。 法律協会の一件で、前のソリシターには、さよならして、リースの交渉を彼女に頼むことにした。

[強い方への味方]

 彼女は最初、一生懸命だった。 ところがある時点より突然変身して、先方への押しが消滅していった。 「おかしいな?」と思いながら、その原因が分らなかった。 結局、ランドロード代行、マネージメントの不動産会社に押切られ、こちらの要求は、ほとんど満たされなかった。 リースも二年間だけとなり、これなら、何の価値もなく、高いリ-ス書類作製費用が無駄となる。 私はソリシターに、「二年間のリ-スならもういらない」と断わった。 そして、もうリ-ス契約の更新を断念したのである。

私とランドロ-ド兼不動産会社はお互いに自由行動が取れる。 彼等に条件の良いテナントが現われたら、私を追い出すことが出来る。 もしそうなっても良かった。 新聞記事の一件で捨身になっていたからだ。 そのかわり、こちらも、新しく移転場所が見付かった場合とか、営業不振で店を閉めたいと思えば、何時でも出て行けるのだ。 私が来月分のレントを払うことで一ヶ月毎に延長していける、いわゆる月ぎめリースとなったのである。

移転をするとなれば、かなりの投資がいる、しかも将来性は疑問である。 でもビジネスだけは続けたい。 ランドロードから「出て欲しい」と言われるまで、ここに居座ることにした。

 町のあちこちに空店舗が出始め、家主達はテナントを見付けるのが難しくなっていた。 特別な事が起きない限り「出ろ」とは言わないだろう、あとは成り行き次第だ。 地価の値下がりで、レントは前よりも少し安くなった。 それにリース契約がないので、将来の値上げは一切なし、これがなりよりも良かった。

 例のソリシターから請求書が届いた。リース交渉の手数料であった。 長い期間を掛けて、交渉は不発に終った。 常にランドロード側、不動産会社寄りの仕事ぶりだった。 でもしっかりと請求をしてきた。

「彼女のオフィスビル、マネージメントは同不動産会社だ、依頼人よりも自分の方が大事だからな」と、ある人が言った。

 以前、クィーンズランド州の某知事氏がテレビで語った。 ソリシター仲間が、金銭亡者になっている姿を見て嫌気がし、その職業を捨てて政治家になったそうである。

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2006年8月20日 (日)

26 マーケットバリュー

[マーケットバリュー]

 リース契約の終わりが近付いたので、延長の交渉をすることにし、ソリシターに頼んだ。 長いリ-スを取れば、ビジネスを売る場合、高く売れる。 今は仕事がなくなると困るから、レストランを手放すつもりはないが、長い契約があれば価値が上がり、より安心である。

 家主からの承諾は疑問だったが、六年間を申込んだ。 印紙代及び書類作製費、ソリシターの手数料等、すべてテナント側が負担することになっている。 同時にレントが余りにも高すぎるので相談したところ、一度法律協会で査定して貰ったらと、そのオフィスヘ連絡を取ってくれた。

 二日後、その事務所からだと言う、背の高い男性がやってきた。 縁なしメガネを掛け、背広にネクタイ、胸に写真入りの身分証明書を付けている。 いかにも重々しく、当局の係官であるとの態度だった。 ちらっと客席を見たあと、いきなり手数料の六百ドルを先に払うよう命じた。 私は言われたように、その場で小切手を切って彼に渡すと、彼は何も言わずに帰って行った。

 三日後、一通の手紙が届いた。 発信人は法律協会とある。 そして、その内容はこうであった。 「家主の請求額通りにレントを支払うように命ずる」と書かれていたのだ。

 私には、この法律協会とはどんな人の集まりかは知らない。 リース文書に一筆があるにせよ、こちらの言い分は一言も聞かなかった。 誰が何と言おうと、ランドロード又は不動産会社と連絡を取り合い、申し合せをしたとしか考えられないのだ。 又、そこを紹介した、三度目のソリシターにも失望した。 それを始めから知りながら、私に余分な費用を出させたのである。

「ソリシターを訴える会」と言う民間団体があるらしい。 依頼人がソリシターとトラブルを起こした場合、その駆込み寺だと聞いたことがある。 大抵過大な請求をされたとかの金銭的なトラブルで、そこへ相談に行く人が多いそうだ。 法律協会とは、その団体から、ソリシターを保護する為の組織ではないかとの気がしてきた。

 この国に長く住んでいる日本人女性が、あるソリシターと共謀して日本人男性から数ミリオンドルの豪邸をだまし取ったとの話は有名である。 すべてがそうではない。 でも正直で良いソリシターを見付けるのは、ここでは非常に難しいのである。

 重要な書類の手続きには彼等の力が必要となる。 この町には、多くはいない。 次々とソリシターを替えてもやがては振出に戻る。 それを一番良く知っているのは彼等である。 評判が良いからと、友人の紹介で依頼したとする。 顧客の友人だからと、その人を大切に扱う日本的な義理立ての考えはここには存在しない。 むしろ飛んで火に入る夏の虫で、これがチャンスとばかりに高額の請求書を出してくる。

[政治家事務所訪問]

 レストランに来たオーストラリア人のお客さんに、レントの一件を話したら、「近くに州議会議員のオフィスがあるから、話を聞いて貰ったら」と住所を教えてくれた。

 次の朝、早速、そのオフィスを訪問した。オフィスには中年女性が一人で事務をしていた。 私が要件を話すと、彼女は、すぐにブリスベンのオフィスヘ電話をしてくれた。 そして来週担当者が、こちらへ来る予定をしているから、もう一度来るようにと言われた。本当に、その女性は親切に応対してくれた。 私は、レント問題の結果に拘らず、選挙の時には、無料で、何かお手伝いでもさせて貰いたいとの気持ちになった。

 当日、私はリース文書他、書類のすべてを持参し、勇んでオフィスを訪れた。 先日の女性が早速別室に案内してくれると、そこに六十才過ぎの男性が座っていた。 彼は議員事務所の幹部所員のようだ。 私は持ってきた書類を出して説明しようとした。 すると開口一番、「土地が高騰している昨今、そのレントは当然だ」と私の話も聞かずに言い出した。 こんな件を持込むなんて迷惑千万だと言わんばかりの剣幕であった。

 私は一刻も早く、そこを退散した。 オフィスを出る時、女性事務員が彼から、こっぴどく叱られている声を耳にした。 「彼女に悪いなあ」と思い、一言何か言葉を掛けたい。 でも中に入って行くと、もう一度彼から怒鳴られそうな気がしてやめた。

 この事務所の州議会議員は、やがて党首に選出され、その後、州知事となった。

[新聞に掲載]

 ジ-ナリストのジョンに、これらの話、法律協会の一件、大幅なレントアップに関する出来事を何気なく言った。 すると彼は膝を乗出して聞き、メモを取り始めた。 そして、「面白い、新聞に書いても良いか?」と、尋ねた。 ランドロードや不動産会社に恨みはない。 刺激するのは好ましくないと思ったが、一般の人にも知って欲しかったので、「オーケー」と返事をした。

 後日、彼から、本格的に取材されることになった。 リース文書等の資料とか手紙を見せながら詳しく説明をした。 週が明けると写真班がやってきて、私をレストランの前に立たせて、数枚撮影していった。

 そして、次の週、特大の写真入りで、でかでかと掲載されたのであった。

「レントアップ、ストローで最後の吸取り!」との見出しだった。

 こんなに大きく出るとは思わなかった。 ジョンはわざわざ新聞を届けにきて、「ランドロードはこれを読んだら、怒るだろうよ」と言った。 「ちょっと、待ってくれ、彼を怒らせては困る」 しかし、もう遅かった。 放った矢は元には戻らない。

 私はリース延長を随分前から要求していたが、ランドロードは何故か、その返事を遅らせていた。 この新聞記事で何等かの進展があるだろう。 もしかしたら、報復措置として出て行けと言われるかも知れない。 「仕方がない、もしそうなったら、店を畳んで出て行こうと、覚悟を決めていた。

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2006年8月19日 (土)

25 家賃の値上げ

[家賃の値上げ]

 レストランが開店して四カ月目に、二十パーセントの家賃値上げとなった。 契約書に書かれていた値上げ期日が来たからである。 「まあ、仕方がないな」と諦めた。

 その一年後に百パーセントの値上げとなった。 そして翌年には、なんと最初の家賃の四倍となってしまったのである。 まさか地価の高騰はないだろうが、本当となったのだ。

 日本はバブル経済の最盛期、銀行はいくらでもお金を貸した。 私のレストランの数軒左隣に古い木造二階建てがあった。 一年前に家主が七十万ドルで手放した。 その建物をある日系不動産会社が四ミリオンの値を付けて買いたいと申し出たそうである。 本当に夢のような話があちこちで聞かれたのであった。

 日本からは地上屋がやってきて土地買いが始まった。 知合いの入っていた店舗、その建物が売られ無補償で立退きを迫られた。

 日本の大手保険会社数社が一等地を所有し、そこにホテルを建てると言う。 日本の有名結婚式場もホテル建築の為、広い敷地を購入したとか、巷からいろんな噂が聞こえてきた。

 ところが一向に建築を始めない。 そこでしびれを切らした当時のクィーンズランド州政府は、その着工を促す為に土地税をべらぼうに上げてきた。 その影響をもろに受けたのは、それを払っていた私たちテナントだった。

 やがてこの法律は改正され、家主が払うことになった。 それもずっと後のこと、1992年3月だった。 当然であり、遅すぎたと言えよう。

[横暴な不動産会社]

 ところで私のレストランでは、リース書類にマーケットバリューの一筆が入っているので、何の苦情も言えなかった。 そうこうしていると手紙が届いた。 そして大手不動産会社がこの建物のマネ-ジメント(経営管理)をすると言ってきた。

 ランドロ-ドが管理していた時には、建物のメインテナンス費用は家賃に含まれていた。 ところが不動産会社はメインテナンス費とマネージメント費の両方を余分に請求すると言ってきたのである。 そしてランドロ-ドに変わって交渉事の一切は、この不動産会社とすることになった。

きついランドロードだったから、そうなったので喜んだ。 大手不動産会社なら職業上、世間の常識をわきまえ、家主、テナントの仲に入って平等に舵取りをするだろう、良いマネージメントをするなら、それらの費用も惜しくはないと思ったからである。

 ところが、しばらくして、ランドロ-ドよりも、ずっときつく横暴なことに気付いた。テナントをすべて敵と見なす態度、リース文書の盲点を見付け出しては、それを盾にして数々の要求をし、真綿で首を締めるが如くに圧力を掛けてきたのである。

 レストランの支払いは、シティレイツにランドタックス、マネージメント費にメインテナンス費、月に一度の下水漕の掃除費、飲食業登録料、雇用人年金と災害保険料、他に新しい法律が出来たと言っては当局から訳の分らない徴収が来た。 それに要となる、レントと経費、材料費、従業員の給料、そして店舗の火災保険等である。

 材料費も安くないレストラン業、純利益からの支出である。 余程、お客さんが入らないと儲けはおろか、その維持すらも困難となる。 それに町の中には、たくさんの日本レストランが出来、大競争となってきていた。

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2006年8月18日 (金)

24 保険会社

[保険会社] 

 自宅の盗難の方はポリスからは何の連絡もなく三ケ月が過ぎた。 知合いにフリージャーナリストがいる。 彼の名はジョンと言う。 彼がレストランヘやって来たので盗難事件を話したら「一度保険会社にクレームすべきだ」と言った。 私は盗まれた品物は家具類ではないし、それに、貴金属用の特別保険にも加入していない。 ましてキャッシュには保険が降りないからと諦めていた。 ところがほんの少しだが保険金が降りるとのことである。 すぐ彼と一緒に保険会社へ行った。 そして詳しい説明をし、手続きを済ました。 それから丁度一週間後、当社から手紙が届いた。 それには「所轄ポリスステイションヘ問合わせをしたが、貴方の家の盗難事件は報告されていない」と書かれていた。

 「なに!」 私は頭がカッ、カッとなってきた。もうこうなったら何をしても手に付かない。 翌朝を待ちかねて所轄ポリスステイションヘと駆込んだ。 保険会社からの手紙を読んだポリスマン、私以上に頭にきたのか、「ちょっと待ってくれ」と言って奥へ入って行った。 そして手に書類を持って出て来、「このコピーを渡すから見せるように、 保険会社からは何の問合わせもなかったよ」と言った。 このコピーだけで十分とは思ったが、念の為、写真と指紋を取りに来た支部警察署へも行く事にした。 こちらの方はジャーナリストのジョンに同行して貰い、言葉のヘルプを頼むことにした。

「確かに調書と写真はある、でもそれらは見せる訳にはいかない」と突っぱねられた。 ジョンもかなり粘ったが駄目だった。 私達の帰り際に、そのポリスマン、「貴方が貰ってきた、そのコピーは門外不出の極秘書類で、よく所轄署は、それを出したな」と苦笑いをした。 私もこんなもの欲しくはなかったのだ。 保険会社がこんな手紙を寄越したから、こうなったのである。

 私とジョンはその足で保険会社のオフィスヘ向かった。 この会社は大手に属し、以前銀行から家の融資を受けた際、ここを指定してきたのだった。

 私はポリスからのコピーを見せ、手紙に付いての抗議をした。 こちらが懸命に苦情を言っているのにヌカに釘で、何の反応も示さない。 担当者が違い、手紙を書いた人も別、私が興奮すればする程、彼女は不思議そうな顔をして私を見詰めた。

 二週間後、保険会社から小切手が送られてきた。 損害総額の十五分の一、ないよりはましだ。 これはソリシター費用の一部としてすぐに消えてしまった。

 後日、このポリス調書の中に、第一容疑者が妻の名になっているのを発見した。 さあ大変である。 彼女のアリバイを立証しなければならない。 当時妻は、この国に戻っていて、離婚手続きを、彼女側のソリシターに依頼していた。 そして短期間ではあったが、ある宝石店に勤めていたのである。 彼女の雇用主に事情を説明し、一筆書いて貰うことにした。

 そして所轄署へこの手紙を提出し、一件落着した。 その日の、その時刻に運良く彼女が店内にいたから良かったのだ。 もしアリバイがなかったら、永久に調書に載ったままとなる。 考えてみれば保険会社からの手紙のおかげだった。

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2006年8月17日 (木)

23 ポリスステイション

 ドーナツショップをやっていた頃、空巣が入った。 朝早く、自宅ヘポリスから電話が掛かった。 「貴方の店に泥棒が入った、すぐこちらへ来るように」とのこと。 急いで店へ行くと正面にパトカーが停まっていた。 車の中を覗き込んだがポリスの姿が見えない。 付近を見渡してもいない。 あちこち探し回ってやっと見付けた。 コーヒーショップのずっと奥の方、二人で談笑しながら、コーヒーを飲んでいた。

 私はパトカーに乗せられ警察支部へと向かった。 署に着き、人が大勢いる大部屋を通り過ぎると、容疑者らしい男が椅子に座って取調べを受けていた。 しばらくすると、それが終ったらしく再びパトカーに乗るように言われた。 私は車の中で待っていると、容疑者が左側後部座席に乗込んで来た。 そして運転席と助手席に其々ポリスマンが座った。 私は彼と並んで座っている。 何とも言えない妙な気がした。

店へ着くまでの十数分間、ポリスは容疑者と世間話を始めた。 時々笑い声も出す。 私はむっつりと黙っていた。 不思議なことに、私が容疑者のような気がしてきた。

 着いたので私は車の外へ出ようとドアーの取手に手を掛けた。 すかさず彼が「それは中からは開けられないよ」と教えてくれた。 そう言えば、先程警察署へ着いた時、外からドアーを開けてくれた。 私は随分親切なポリスマンだなと思った。 又、容疑者はいつもパトカーに乗せられる常習犯だったのだ。

 彼は店舗建物のモーテル宿泊客で、同じく宿泊客の中に筋骨逞しい初老の男性が長期滞在していた。 私達夫婦とは顔馴染みで、彼に男優チャールトンヘストンの名を付けていた。 彼が今朝早く、この男を捕えたのだった。

 容疑者はドライバーのような物でドアーの鍵を壊して侵入、レジスターの中にあった小銭すべてを、一緒に入れてあった銀行の木綿の袋に詰めて、部屋へ持ち帰った。 そして再びやって来て、今度は冷蔵庫の中のコーラを取り出して飲んでいた。 そこを彼に見付り御用となったのである。

 町の中で閉店後の遅い時刻、ウインドーショッピングをしていると、レジスターの銭入れ箱が開けられたままになっているのを良く見掛ける。 あれはここにお金は一銭も入っていませんよ」との知らせ、防犯の為である。

 オーストラリアのコインは大きくて重い、私はいつも自宅へ持ち帰らなかった。 合計金額にして15ドル程度だったからである。

 二人のポリスマンは、この容疑者の部屋へ行き、枕の下に入れていた小銭入りの袋を取り出して来た。 私が店の中にいたら、ポリスの一人が、その袋を振ってジャラ、ジャラと音をたてながら、容疑者と共に入口に立止まった。 「これは貴方の物だ、お金を取られて悔しいだろう、この男を殴ってもいいよ」と言った。  容疑者は一瞬、顔色を変えた。 彼は二十五、六才の背の高い体格のいい男だ。 小男の私が殴り掛かっても彼の顔に届かない。 私はもちろん「ノーサンキュー」と断わった。

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2006年8月16日 (水)

22 泥棒天国

あくる朝、どうしても腹の虫が治まらない。 ポリスも真剣に取合わなかった。 このままだと泣き寝入りだ。 私は開店時間を待ちかねて、その店へ怒鳴り込んだ。 ダメでも何か言ってやりたかったからだ。 彼は店に一人でいた。

「自宅に泥棒が入った。 おまえやっただろう?」すると、「わしは、その時間には店にいた。 家に現金なんか置くからだ」と言った。

 「ちょっと待ってくれ」 私は彼に「泥棒が入った」としか言っていないのだ! どうして現金が取られたことを知っているのか? 「アッ、やっぱりこいつだ」と思った。 「おまえマイト(友人)にやらせたろう?」 私も彼本人がやったとは思わない。 中年太りの大男、窓から入れなくもないが、至難の技である。

 私は、今、彼に対し大変なことを言っている。 無実なら、「名誉棄損で訴える」となる。 ところが彼は、「知らぬ、存ぜぬ」の一点ばり、「こいつ初めてでないな?」と直感した。

 彼はいつも、若い従業員と二人で営業している超高級オーディオ店のオーナーである。 顧客の中にも被害に合った人がいるかも知れない。 でも何一つ証拠がない。 まして彼のマイトがやったとなれば、なお一層追及が難しい。 悔しいがどうすることも出来ないのだ。 言いたい事は言って少しは腹の虫が治まった。 私のレストランは近くだった。 店に入り、カッカッする頭を静めながら、開店の準備に取り掛かった。

 三日後の三時過ぎ、家に検視官がやって来た。 今度は私服で一人だった。 テレビで観るように、かっこよく写真入りの身分証明書を見せた。

 侵入窓と壊れたインセクトスクリーンの写真を撮ったあと、家の中で指紋を取り始めた。 出口に使ったドアーの取手からは指紋は検出されなかった。 棚に置いていた大皿を動かした形跡があったので検査を頼んだ。 ポン、ポン、ポンとアルミの粉を振り掛け、形式的にやり終え、指紋が出ないのを確認すると、彼は言った。 「泥棒はガーデン手袋をしていたから、指紋は出ない。 この皿はなかなか価値のある品物だ」と、雑貨店で買った安物の皿を誉めた。 そして、「二、三週間後に、マネーロ-ン店(質屋)へ盗まれた品物が売られていないかを見に行くように」と言い残して出て行った。

「アーアー、もう駄目だ」、私は唖然として、彼の帰る姿を見送った。

[泥棒天国]

 盗難事件はこの地域では非常に多い。 日常茶飯事であることから、異名で、「泥棒天国」地帯と呼ばれている。 ポリスもおおらかで余り力を入れないから、泥棒達も安心して仕事が出来る。

 自宅が通常の火災保険に入ると、自動的に家具類にも保険が掛かり、火災だけでなく、それらが盗難に合っても保険金が降りる。 この時、保険会社にクレームするには、必ず警察署の調書がいり、その書類を作製するのが、ポリスマンの仕事の一つでもある。

 被害者から盗難の届け出を受ける。 当人は大変興奮しているが、ポリスマンは淡々として、タイプライターの前に立つ、そして盗品の種類、時間と場所、状況等を聞きながらタイプを打つのである。 それが終ると、これを保険会社へと言って、用紙の片ヒラを渡してくれる。 被害が少ないと、「いま忙しい」とか「交通事故で仲間が出ているから」とかの理由で現場も見に来ない。 私のレストランと警察署は歩いて一分の距離である。 度々盗難に合ったが見に来たことがなかった。

 これは良くある事件で笑い話ではない。 泥棒が二、三人で引越し屋を装って、大きなトラックで留守の家の玄関に横付けする。 家具類のすべてを車に積込み、時にはタオルから窓のカ-テンまで持って行く、住人が職場から帰って家の中へ入った途端、「アレ!」と言って、もう一度、外に出て自分の家かどうかを確かめる。 中の様子が全く違うからだ。 おまけに、隣、近所に引越しの挨拶をしていく、丁寧な泥棒もいると言うから手に追えない。 白昼堂々で疑う人はいない。 普段から隣、近所とは仲良く付合いをして、近々引越しはしない事を伝えておく必要がある。

 中古家具類は盗難品でも、いちいち調べず、安いと簡単に買い手が付く、泥棒の方も、盗まれた人は、後で保険屋から支払いを受けるからと、さほど罪悪感を持っていない。

 保険加入者の中には盗まれてない品物まで報告し、余分に請求したりする。 時には偽装盗難をする悪い人もいる。 保険会社も支払いは慎重で、領収書の提出とか、いろんな難点を付けては盗難品の価値を下げてくる。

 先日、私は火災保険の請求書を受取った。 毎年同社で更新していて、少しずつ値上げがある。 今回その上げ幅が大きすぎるので、当オフィスヘ行って確かめた。 すると「あなたの地区は統計で盗難多発地帯とコンピューターに出ているからだ」と言われてしまった。 車で五分圏内でも、地域によって保険料の違うことが、友人宅へ来た請求書と比較して分った。

 盗人より盗まれた人が追及され、もし鍵をしていなかったなら、保険金は降りない。

それに泥棒は余程トンマでないかぎり捕えられない。

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2006年8月15日 (火)

21 自宅に泥棒

Photo_30 [自宅に泥棒]

 この離婚問題の最中、1988年2月、自宅に白昼堂々と泥棒が入った。 ランチタイムのあと、何時ものようにレストランを閉店し自宅に帰った。 家には三才になるメスのトイプードル犬がいた。 庭に放し飼いにしていたら、吠えすぎて近所から苦情が来た。 それでガレージのずっと奥の方に繋ぐことにした。 この犬の世話の為にも帰宅する。

 シャッタードアーを開けると、そこから離れた場所につながれているはずのティティ(犬の名)がそこにいた。 「あれ」良く見ると鎖を付けたままである。(写真はグルーミング前のティティ)

 「どうしたの?」 ティティはガレージを抜け廊下から庭に出るドアーまで足に巻きついて離れない。 私が帰宅すると何時も喜ぶが、急いで庭に出て用足しをする。 鎖を外してやっても外に出て行うとせず、しきりに小さな体を擦り寄せてきて、じっと私の顔を見詰めたままである。

「アレッ変だな、フルブル震てる、それに庭に出るドアーは閉めたはずなのに」このとき風がスーと通り抜けた。 「アレッ、まだどこか空いている」部屋に入って、やっと泥棒に入られた事に気が付いたのであった。

 レストランの売上金、指輪に時計、少しだが金と銀のインゴットが無くなっていた。 まさか自宅に泥棒が入るとは思わなかったので特別な防犯設備はしていない。 鍵もデッドロック(死錠)でなかった。 ドアーで隔てた、ガレージ内のティティが家の中の異常を感じ、思い切り吠え、鎖を犬小屋から引き千切ったのだ。 かわいそうにブルブル震えていたのは死ぬ程怖い思いをしたからだった。

泥棒は、犬は居るが小型犬でガレージの中だと予め知っていた。 私に突然ヒラメキがあった。 「アイツだアイツに違いない」 人を疑ってはいけない。 でも状況から判断して彼がやったとしか考えられない。

 先週の金曜日に、ある有名ブランドのテレビとビデオを買った。 よせばいいのに、値切るつもりで、わざわざ銀行から現金を降ろして支払った。 結局、一銭の値引きもしなかったのだ。 その配達をしてきた男、何とも言えない目付きで、家の中をジロジロ見ていた。 私がゾォーとしていた時、ティティがガレージの中から、けたたましく吠えた。

 あくる日のランチタイム、彼からレストランヘ電話をして来た。 まったく何の用事もなかったのだ。 「変な人だな」と私は思ったが、一流店の人だからと信用した。 あれはきっとランチタイムに私がそこに居ることを確認する為だったに違いない。

 日曜日は、近所の人や子供達が家に居る。 又、外に出て遊んでいたりするから見付かるとまずい。 日が経過すると現金は銀行へ持って行かれる。 そこで実行日は月曜となったのだ。

 私はレストランヘ戻って、近くのポリスステイションヘ届け出た。そうすると、管轄が違うからと、別の署へ電話をし、今夜、その署から直接家へ検証に来ることになった。 私はディナータイムを早々に切り上げ、家で待つことにした。

 ポリスマンが二人で時間通りにやってきた。 調査によると泥棒は便所の小さな窓のインセクトスクリーン(虫よけ網戸)を壊し侵入していた。 サッシ窓を通気用にと少し開けていたのが災いしたのだ。 外窓は地面から1.7メートルの高さがあり、その下に台が置かれていた。 家の裏庭出口にも別の大きなガラスのスライドドアーはあるが、そこにも二箇所ドライバーでこじ開けた跡があった。 最初ここから入ろうとしたが果せなかったようだ。

 家の周囲は1.6メートルの塀で囲まれていて、大きな品物は持出せない。 最初から現金と貴金属を狙い、仕事が済んだ後、ランドリー(洗濯場)の押しボタン式錠のドアーを開けて堂々と出て行った。

 時間は午後二時過ぎ、私が帰ったのは二時四十分頃でティティの興奮さめやらぬ状態から見て、そう時間はたっていない。 付近にもたくさんの家があり、何事もなかったことから、私の家だけを狙った計画的犯行である。

 ポリスは私にいろんな質問をした。 その中に、妻とは離婚の為、別居中であることも含まれていた。 ポリスは何となく、妻を疑っている様子だったので、私はとっさに「それだけは、絶対にない」と否定した。

 彼女は家の鍵を持っている。 もし泥棒が侵入した様に見せ掛けようと便所の窓から入ったとする。 その侵入しようとしている姿を想像するだけで、普段からスポーツにはまったく縁のない体型の彼女である、滑稽で笑いが止まらないからだ。

 私の直感と推理で、テレビの配達人のことを伝えたが、まったく取合わなかった。 ポリスは後日、支部から検視官がもう一度来て、調査をするからと言い残して帰って行った。

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2006年8月14日 (月)

20 離婚

[離婚]

 その事故の後すぐに、妻の実家からレストランヘ国際電話が入った。 彼女の兄からで「入院している父親が危篤状態となって、私の妻の名前を呼んでいるから帰国させてほしい」とのことだった。 外国に住んでいると、こんな場合非常に困る。 当時は簡単にチケットが手に入らなかったのだ。

営業中のレストランを抜け出して、町中にある数軒の旅行社へ行って探すことにした。以前、彼女の母親が入院した時は、日数にゆとりがあったので容易く手に入った。 でも今回は緊急事態である。 一刻も早く手に入れ帰国させてやらねばならない。 それが夫としての責務のように思った。 ちょうど真冬、小雨降る肌寒い日、チケットを探し求めて町を歩き周った。 でも当日分はどこにも見付からなかった。

 しばらくして、知合いの紹介でチケットが手に入った。 なんと通常の三倍もの値段だった。 ランチタイムの営業時間を早目に切り上げ、急いで自宅に戻り、彼女の帰国準備を始めた。 夜の便で、空港行きバスの発車時間ぎりぎりに間に合った。 もし乗り遅れたら、今夜レストランを休業し、空港まで車で送る予定だった。 バスの窓に見える彼女の顔、非常に憂鬱そうだった。 「父を心配しているのだな」と私は思った。

 これが彼女との事実上の別離となった。 普段から彼女は、「どうもこの国に馴染めない」と愚痴を零していた。 最初の頃は外国住まいが達成でき喜んでいたのである。 でも憧れは成就すると魅力がなくなるものである。

 言葉の問題、習慣の違い、友人の問題、まだ他に原因があったかも知れないが、ここに住む日本人夫婦は、最近こんなケースでの離婚が多いと聞く。

「十年たったら、二人で良く話合って決めよう」と彼女に言ってはみたが、心の中は逆であった。 私はすべてを処分し、背水の陣を敷いて日本を出た。 日本円も強くなったし、ここでもう一度処分して帰る訳にいかないのだ。 まして四十才過ぎの私に、日本で旨く職が見付かるはずもない。 兄にもう一度使って欲しいと言うのも悔しい。 それよりも嫁さんに連れられ、のこのこ引上げて来たとなれば、何と甲斐性のない男だと、皆から笑われるに違いない。

 私は、この国に骨を埋めるつもりでいた。 レストランも好調だったからだ。 この後、いろんな経過を辿って、私達は協議離婚をすることになった。 一緒になって五年だった。

 このすぐ後、友人夫妻も離婚をした。 最初の店の隣だったアイスクリーム屋さんで、以前の持ち主である。 御主人の名はヨハン、奥さんはマリーと云う。 私達よりも若く、二人共スイスから、ずっと前に移住していた。 この店を売った後、私達と同じ時期にレストランを持った。 ハイウェイ沿いの商業地区に古い家を買い、その場所にレストランを建てた。 パートナーはいたが家主兼オーナーで、腕の良いシェフがいて大繁盛していた。

 その客、常連さんの中にかなりのお年寄りがいてヨハンの奥さんを口説き始めた。 そしてマリーはその気になってしまったのである。 そのお年寄りはかなり資産家だった。 こんな場合、お互いに契約書を交わす。 彼にたとえ子供がいても、死亡したら、財産はすべて、彼女に譲渡するとの、一筆を入れるのである。

 私のゴルフ仲間にそのようなお年寄りがいた。 彼は70才を過ぎていて心臓病患者であった。 彼は何時もカート持参でプレイをしていて、こちらが何も聞かないのに、奥さんの話をし、「財産目当ての相手だ」と、顔をしかめた。 マリーの時期と一致するので、もしかしたらと、何気なく聞いてみたら人違いだった。

 ところでヨハンは大ショックを受け、私のレストランへ来て、悔しさ一杯でその話をした。 「貴方達は、お互いに愛し合っていたではないか?」 「そうだったのだが、彼女は大金が欲しいと云うから」と寂しそうに答えた。 彼は自宅とレストランを手放し、今は、長距離バスのドライバーをしている。

 人生、今がハッピィでも何時どうなるか分らない。 彼女のように、契約相手よりずっと若くても、どちらが先に死ぬかは分らない。 確率は少し高いが、賭けなのである。

 暫くして、この話に後日談が付いた。 離婚したての私の元細君に、ヨハンが口説きに来たそうである。 そういえば、あの時、彼女の住所を念入りに聞いていた。 本当に油断もすきも出来ないのである。

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2006年8月13日 (日)

19 逆境の始まり

Photo_20 [改装、そしてオープン]

 レストランをテイクオーバーし、改修となった。 カンバンと、工事にライセンスのいるもの以外はすべて自分でやった。 キッチンの中は使い易いよう特に念を入れて改装した。 客席の璧に竹のスダレを張付け、かねてから手作りをしていた和風の照明器具を取付けた。 外側入口の上に遠くからでも良く目立つようにと赤チョウチンを数個付け、暖簾を吊り下げた。 この改修に丸二ヶ月かかった。(上の写真はオープニングパーティの様子)

 オープニングパーティには友人、知人、旅行関係者を多数招待し盛大なものとなった。料理メニ-は妻のアイデアで多数増やし、後日それらはことごとく大評判となった。 折からの日本人観光ブームでレストランは大繁盛、ウェイター、ウェイトレスを増やし、順風満帆で突き進んでいった。

[逆境の始まり]

 そんな状態が約一年間続いた。 ある日の午後、用あって帰宅途中だった妻からレストランヘ電話が入った。 「ハイウェイで車が追突された、すぐに来てほしい」

 ちょうどランチタイムが終わり、しばらくの閉店中、私は仕込みをしている最中だった。 場所はここからそう遠くないが歩いていける距離ではない。 私はバスに飛び乗った。 現場に着くと、妻が無事だったので、ほっとした。 車は右側後部、テールランプが壊れペッシャンコ、妻から事情を聞くと、右側車線を走行していた彼女の車の背後に中年男性のBMWが続いていた。 その車の左側走行車線後部にいた若い男性ドライバー、無理やり右側車線に移動しBMWに追突した。 その衝撃でコントロールを失った彼は妻の車を避けようと急いで右側中央分離帯にハンドルを切ったが、すでに遅かった。 BMWの車がもしハンドルを右に切らずに追突していたら妻のむちうち症は避けられなかっただろう。

 他のドライバーにもケガはなかった。 ポリスが来て交通整理と現場検証が行われ、レッカー車も数台来ていた。 ポリスが私達に近付いて来て車を点検し、二、三質問をした。 エンジンを駆けるとポンと軽い音がして動きだした。 エンジン回りには、何の異常もない、これでレッカー車の世話にならなくて済む。 相手側の名前と電話番号を聞き、レッカー会社数社のビジネスカードを貰って、その現場を離れた。

 この国で交通事故が起きると、ポリスよりも一早く、各社のレッカー車が駆付ける。どこから、その情報を得るのか、私には分らない。 レッカー車は修理会社の所有で、お互い牽引作業の取合いで一番乗りを目指す。 車は、たいてい任意保険に入っているから、修理費用は保険会社が支払う。 それには修理工場三カ所の見積もり書が必要である。

 私は以前シドニ-に住んでいて近くに、ある日本の保険会社のオフィスがあった。 日本人駐在員がいて、事故の時、複雑な手続きとか言葉の問題で助かると思ったのである。 そのオフィスヘ電話を入れると事故の模様とか、ややこしい問題点になると、オーストラリア人のスタッフが出て来て応対させられた。 何の為に日本の保険会社に入ったのか分らない。 結局、英語で事故の説明を強いられ、英文報告書を書かされ、それに長距離電話を何回もして、やっと手続きを開始したのであった。 

もし私が強いプッシュをしていなかったら、何時まで経っても手を付けず放置されていただろう。 それがここの保険会社のやり方だと気が付いた。 そして見積り書の一番安いのを指定し、修理工場まで検査員が点検に来て、やっと修理を始めた。 すでに事故から三カ月もたっていた。

こちらに住む者は日本人、日本語に頼ってはならない。 そして地元にオフィスのある保険会社を選ぶべきだと思った。

 この追突事故をキッカケとして私の身辺に陰りが見え始めた。

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2006年8月12日 (土)

18 BYOレストラン

Photo_19 [BYOレストラン]

 ここはBYOレストランであった。 オーストラリアのレストランで酒類を出すにはライセンスがいる。 これを取得するには条件があって、客数とその広さ、便所の数は客専用に男女別々と、それにスタッフ専用が必要である。 便所だけでもかなりのスペースがいる。 又、年間のライセンス料も高額なので、かなり大きなレストランでないとライセンスは取れない。 では小さなレストランではどうするかと言うと、BYOにするのである。 これには条件はなく、ライセンスもいらない。

BYOとはブリングユアーオウンで自分の酒類を持込み出来るとの意味である。 酒類のライセンスを持ったレストランでは原則として、これが出来ない。 金曜、土曜の夕刻酒ビンを手に、町中を歩いている人達を良く見掛ける。 彼等は決して酔いどれではない。 BYOレストランを深しているか、又はそこへ行く途中なのである。

 笑えない本当の話がある。 ある日本人青年が、この町へやって来てレストランで食事をした。 ビールを飲みたいと思い注文をすると、ウェイターは早口の英語で、この店にはライセンスがないので酒類は置いていないと説明をした。 その青年、何を思ったか、おもむろにカバンからパスポー卜を出してウェイターに見せたそうだ。 青年はてっきり自分は未成年と見られていると感じ、その証拠としてパスポートを見せたのであった。 日本なら屋台でも酒は置いている。 まったく彼には信じられないことだったのだのである。

 ソリシターにこの建物に付いての調査と、リース文書の内容を詳しく調べて貰った。 本当は仮契約の前に知りたいのだが、その時には文書は見せて貰えないのである。

 この建物は都市計画には入っていなかった。 したがって四年後のリ-ス延長には支障はない。 ところがリ-ス文書に重大な点を発見した。 文章の一部に、その時のマーケットバリュー(地価)によってレントの金額が決まるとなっていた。 毎年、通常のレントの値上げは、CPI(政府が毎年発表するインフレ率)か、最低でも8パーセントは上がると書かれている。 それプラス、付近の土地が上昇すれば自動的に上がると言うのである。

 これは非常に危険である。 その判定基準と上限が書かれていない。 ランドロードの言いなりに決まる可能性がある。

 ソリシターを通じて、この文章の改訂と、あと四年間のリ-ス延長を申し出た。 しばらくして、ランドロードから返事がきた。 「文章にあるマーケットバリューの件は他のテナントもそうなっていて貴方だけ特別に書き変える訳にはいかない。 又、リース延長は、そのリースが終る間際にしたい」と云って、突っぱねられた。

 そう言われたら、こちらとしては何も言えない。 マーケットバリューには引掛かったが仕方がなかった。 多分、地価の高騰も大したことにはならないだろうと思ったのである。 レントは週230ドルで、以前の店よりも数倍の広さがある。 他にシティレイツとランドタックスを払うよう銘記されていた。

水道とか下水、ゴミ処理等の世話になるので、シティレイツは仕方がない。 でもランドタックスがどうも納得がいかない。 各テナントはそのスペース専有率で計算されて、互いに出し合っているのだが、建物と土地はランドロードの持物なのである。 これは、この町独特のやり方だと、何時か聞かされたことがあった。

 百年前、この町への投資金のほとんどは、シドニ-、メルボルンで何等かの犯罪に関与して儲けたお金であったと聞いたことがある。 欲深いランドロード達の仕業だった。

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2006年8月11日 (金)

17 ランドロード

Photo_18 [旅行]

 前の店にあった備品類すべてを自宅の車庫に置き、その手入れをした。 レストランのテイクオーバー(受渡し)まで数週間ある。 この期間、二人で旅行をすることにした。(写真はクイーンズランド州の海岸)

妻はクィーンズランド州の北部は知らない。 ステイションワゴンに寝具、炊事道具を積み込んで出発した。 公園の中にテーブルを出して、クッキングをし、キャラバンパ ーク(車の簡易宿泊所)で自炊しながらの旅である。 クィーンズランド州の海岸沿いはどこも自然がいっぱいできれいだ。 人が少なく、いつも我々だけであった。 釣りをしたり泳いだり、常夏の太陽のもと、南海の孤島で、世界が私達の為にあるような気がした。

 小さな店から、今度は本格的なレストランになる。 思い通りになった喜び、将来への希望に胸を脹らませながら、地上の楽園でのホリデイを心の底から満喫した。 これが二人にとって最初で最後、一番ハッピィな時間だったとは誰も知る由はなかった。 

旅行から帰ってもレストランの受渡し手続きは一向に進んでいなかった。 ソリシターはランドロード(家主)からの返事待ちとの事だった。

 テナントがビジネスを売る場合、ランドロードの承認がいる。 テナントとランドロードが、何かトラブルのある場合は別として、ランドロードはそれを拒否できない。 ここも前の店と同じく、まだリースが残っているから、その書類を名義変更し受継ぐだけである。

 前のテナントは二年前に六年間のリ-スを取っている。 彼はその前のテナントからビジネスを買ってリースの更新をし、書類を作った。 しばらくレストランを営業したが、ビジネスが今一つ良くない。 そこでリ-ス期間のたっぷりある今が売り時と決めたのだった。

 ランドロードとしては、テナントがビジネスを売っても、何の利益もない。 新しくリ-ス文書を作る場合は、レントの値上げとか良い条件も付けられるが名義変更なら一銭にもならないのだ。 しかし承認のサインをしなければならない。 そのサインをするのをわざと遅らせる。 売る側は早く済ましてお金を受取りたい。 買う方としても一刻も早く手に入れ、オープン又は店内の改装をしたい。 ところが、ランドロードはいくら遅くなってもかまわないのだ。 レント等の精算は売手と買手がするからである。 遅れて最も困るのは売手の方である。 そこで売手はランドロードにコミッションを渡す。 通常売値の十パーセントと聞くが、誰も本当のことは言わない。 これは法律違反となるからである。

 ランドロードは書類に署名を遅らせることで、暗にコミッションを要求している態度となるのである。

 売り側である彼は、ランドロードの話となると顔をしかめた。 かなり厳しい人のようだ。 世界中で家主を好く人はいないと、自分自身に言い聞かせた。 私はこの件では、もう一歩も引けない状態だったからである。

[ランドロードに面会]

 ソリシターを通じてランドロードが私達夫婦に会いたいと言ってきた。 家賃をずっと払っていける顔をしているかどうかの首実験だったのか?  それとも時間を稼ぐ手段だったのかは知らない。 こんな話は今までに聞いたことがなかった。 私の信用調査なら前の家主に問合わせをすれば、すぐに分かることである。

「石橋を叩いて渡る」の格言がある。 「その石橋を叩き過ぎて割ってしまった」とは、常に慎重な態度を見て、妻は私にそう言った。 ランドロードも、慎重な人だなと苦笑いしながら会いに行くことにした。

 彼の家はブリスベン郊外の閑静な住宅街にあった。 広い庭に立派な建物と調度品、 これがこの国でのランドロードの住まいなのだと思った。

 私は日本人観光客の急増で将来のビジネスの成功を強調し、レントの不払いは絶対しない事を誓った。 ランドロードは納得したが、彼の度の強いメガネの奥で、何か異様な輝きを見たのは、訪問者の中で、私一人だったろう。

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2006年8月10日 (木)

16 レストランの購入

Photo_14 [レストランの購入]

 売りに出していたレストランの中で興味のある物件が見付かった。 売却の理由はビジネス不振であろう。 前と同様日本食店だから問題はない。 まだ他にも訳がありそうだが、ある程度は目をつむる必要がある。 そうしないと何時までたっても店は持てないからだ。

 そこはスヌッチェル(子牛のカツ)専門のスイスレストランだった。 ドアーと正面は木の桟が入ったガラス張りで、その上には軒屋根をあしらった飾り付けをしていた。 どこから見ても、日本の古風民芸レストランの趣がある。 高い背もたれの付いた椅子は、昔の蒸気機関車の客車を思い出す。 パイン製のテーブルはこのレストラン専用に作られていて、詰めて座ると全席で五十人が入れそうだ。(写真はレストラン正面)

 この国ではレストランヘ来る客の様子が異なる。 日本人は食べ終わると、すぐにその場から離れたくなる。 別に急ぐ用件がなくてもそうする。 ここでは一度入ると、一、二時間となる場合が多い。 たっぷりと時間をかけ、家では得られないエンジョイをしに来るのである。 したがって経営者としては入替えで売上げを伸ばす訳にはいかない。 そこで、今入っているお客さんにオントレからゼザートまで出来るだけたくさん食べて貰い売り上げを増やすのである。

 このレストランは海岸沿いでないが車の通行量の多い道路に面し、近くに大きなホテルが出来て間もなかった。 交差点からはちょっと目立ち難いがそれはカンバン次第でどうにでもなる。 

この左隣に不動産屋があった。 私は四年前の旅行中、前へ立止まって正面に貼られていた物件を見ていたら、オフィスの中から、スタッフのおばさんに声をかけられた。 それが縁でドーナツ店を買い商売を始めることになった。 懐かしい思い出と共に、何かしら因縁めいたものを感じた。

 この建物は角地で古い木造二階建てである。 二階はオフィスが四軒、一階には五店舗のテナントが入っていた。 今の所、取り壊し、建てかえの計画はない。 角側にシーフードレストランがあり繁盛していた。

 このスイスレストランには四年と少しのリ-スが付いていた。 その設備品一切込み(居抜き)で、五万二千ドル、(1986年8月、当時の為替レイト、1ドル160円前後) 勿論、値引きをして買っての価格だった。 私は、早速十パーセントの手付け金を入れて契約を交わした。

 今回の手続きは別のソリシターに依頼した。 前のソリシターは新店舗探しを最初は熱心に手伝ってくれた。 しかしこちらが余りにも色々と条件を付けるので怒ってしまったのである。 買う方の立場としては、それが当然の事と思うのだが? そして、今までの手数料を、しっかりと請求してきたのであった。

 ずっと前に不動産屋が私に言った。「お金が必要になれば、ソリシターに相談せよ」と、当時私はその意味が理解出来なかった。 お金を借りるのは銀行からだと思っていたからである。 しばらくしてソリシターが高利貸しをしていることが分った。 どうもその特権が彼等にあるようだ、でも何となく変な感じがする。

 オーストラリアに格言がある。「医者とソリシター、不動産屋は絶対信用するな」と。では彼等が信用出来ないのなら、一体信用出来る相手とは誰か? この国の旦那さんは奥さんでさえ自分の給料の額を言わないそうだから、それを答えられる人はいない。

 しかし不動産やビジネスの売り買い書類の作成、手続き等は自分では出来ない。 どうしても彼等に頼らざるを得ないのである。

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2006年8月 9日 (水)

15 建物の取り壊し

1982  クィーンズランド州で電力のストライキがあった。 時の州知事はガンとして組合の要求を聞き入れない。 その対抗として、予告なしで無差別に電気を止めた。 この商店街も、一瞬時間が止まったように静かになった。 夜は真っ暗となり、他の店では店頭にロ-ソクを点して営業を始めた。 私達も真似してみた。なかなか風情があり楽しい雰囲気となった。

 ところが、それを喜んでいられなくなってきた。 冷蔵庫、冷凍庫の材料の保存状態が悪くなってきたのである。(写真は1982年当時のサーファーズパラダイス)

 ホテルでは新婚さん達がエレベーター内に閉じ込められたと聞く。 早速新聞社が取題に来た。 「この電力ストライキについて、日本人観光客はどのように言っているか?」「日本では考えられないストライキだ。 彼等は大変被害を受けている。 一刻も早く解決して欲しい」と私は答えた。 スト慣れしている、オーストラリア人でさえ怒っていた。

 ある生鮮食品の販売員は「品物が腐り始めた。これではビシネスにならない。 関係者をライフルで撃ち殺してやりたい」と物騒なことを言った。

 クィーンズランド州の中南部東側海岸添いに、ヤプーンという町がある。 日本で九州の実業家、I氏が一大プロジェクトでリゾー卜の開発中であった。 私達も後日、北の方へ旅行したとき、立寄ったことがある。 ゴルフ場に娯楽設備、ホテルは学校の校舎のように横に並んでいた。 土地が広いからそうなったのだ。 屋外プールは湖のように大きく、総開発規模はこの国で過去最大と言われた。

 その開発者のI氏が数人の部下を連れて私達のこの小さな店で食事をしてくれた。 ヤプーンとこの町はかなりの距離がある。 何かの用でこの町へ来られ、誰かから私達夫婦のことを聞き、「日本人夫婦の店で、是非食事がしたい」と部下に言われたそうである。 当時八十才を過ぎておられたI氏がわざわざ来てくれたのだった。

 日本人がこの国で店を出し頑張っている。 その励ましだったに違いない。 私は感動した。 そして素晴らしい思い出となった。

[店舗ビルの取壊し]

 1986年2月、「この店鋪付モーテルの取壊しをする」との通知が届いた。 前の持ち主は、すでに売却し、新しい家主となっていた。 かねてからその事は知っていて覚悟はしていた。 店のリ-スはずっと前に切れている。 他の店舗もリースが切れ、これで全店の足並が揃った。 家主はテナントに何の保障もいらない。 それを待っていたのだ。 この店で三年八ヶ月の営業をし、この間、他のテナントは次々と替わり、この建物内では古参となっていた。

 隣のアイスクリーム屋さん、まだ一年と少しの営業である。 リース契約の延長を期待してビジネスを買ったのだが裏目と出たようだ。 どんなにがんばっても一年で投資額を取戻すのは不可能である。 設備として付いていたアイスクリームの機械と備品類は古いものばかりで価値はない。 おそらく数万ドルの損であろう。 情報不足だったのだ。 買う前に私の店へ訪ねてくれば詳しく教えてあげたのに。 それかと言って前のテナントとは夫婦で付き合っていたから、やはり来なくて良かった。 ここでは予告なしで突然テナントが代わる。 新顔がいるから聞いてみるとその人が、新しいテナントだったりする。 ビジネスが安値で買えると、誰でも危険を返りみず飛び付くものである。

私達は運が良かった。 リース延長がない代わり最初から最後まで一切家賃の値上げがなかった。 その間、日本人観光客の急増で商売は大繁盛、次のレストランの資金源が出来たのである。

 ビルの新家主は有名ハンバーガーチェーン店だった。 新ビルのスペースのすべてを使用することになり、私達は別の場所を見付けることにした。

 近くで売りに出しているレストランを片端から見て回った。 繁盛しているレストランは売りに出さない。 どんな問題を抱えているのか、それを見極める必要がある。

 ドーナツ店では前のテナントは営業不振が原因だった。 彼は脱サラをしてドーナツ店を買い二年間営業した。 世の中ダイエットが流行し始め、カロリーの多いドーナツは食べなくなった。 子供相手で、しかも売れるのはスクールホリデイだけだ。 従業員に給料を払ったら儲けが出ない。 奥さんも手伝っているのに、これでは割に合わないと気が付いた。 まだ二年のリ-スが残っている。 売るのは今だとなったのであった。

 同時に家主の方もビルを売りに出していた。 古い建物だ、買い手は新ビルを建てるだろう。 テナントに長いリースを与えると取壊し時の保障とか建築が遅くなって、買い手が嫌がる。 だからと言ってテナントに今出て行かれると家賃が入らない。 リース延長に関してはイエスともノーとも言わないのは、それが理由であった。

 家主は買い手を見付けるのにざっと四年近くかかった。 私達はその隙間に旨く入り込んだのである。 この家主はギリシャの出身で、三十数年前、オーストラリアヘ永住する船の中で、二十シリングしか持っていなかったそうだ。 シドニ-のレストランで働きながら苦労し、やがて財をなしていったと聞く。 この建物を売った後、当時この町では唯一のホテルを買い、新聞に写真入りで出た。 そして出世談として大きな話題を呼んだのだった。

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2006年8月 8日 (火)

14 日本食の店

Photo_12  [ドーナツの販売]

 ドーナツ店に、フルタイムとカジュアルの二人の女の子が働いていた。 この国でビジネスを買うと従業員もそのまま付いてくる。 オーナーが何代も変わろうとも従業員はそのままということが多い。 設備に材料、それにスタッフまで揃っている。 どんな客筋が来て、営業成績、それに忙しい時期も知りたかったので、しばらくドーナツ店を続けることにした。

 粉の練り方、ドーナツの作り方と飾り付けの方法、機械の掃除の仕方、帳簿の付け方まで、前のオーナーが懇切丁寧に教えてくれた。 仕事上の細かい点は女の子から教わった。 ここでは、全くの素人で経験がなくても、すぐに商売を始められるのである。

 クィーンズランド州、ニューサウスウエルズ州、ビクトリア州のスクールホリデイになると、子供達の休みに合せて、親達が一緒に休暇を取り、このリゾートヘ遊びにくる。

 スクールホリデイは一年に四回、短いので三週間、クリスマス休暇だと六週間ある。 ユニット(コンドウミニアム)を数週間借りて住む人、又、お金にゆとりのある人は所有していて、景色の良い豪華なハイライズ(高層住宅)から、一、二階の建物まである。

 ユニットを持つと経費がかかる。 シティレイツ(市民税)、日本では、そこに住むと給料から徴収されるが、ここは不動産を持つと市の経費として徴収される。 又、自宅以外に不動産を持つとランドタックス(土地税)が掛かってくる。 それにボディコーポ、これは建物全体や庭園等の管理及び維持費である。 それらの費用を捻出する為に、年間を通じ賃貸しして自分達が使いたい期間だけ空けてもらうのだが、この調整と借り主を見付けるのはなかなか容易でない。 そこでそのマネージメントをする人が必要となる。 これは不動産会社も代行するが、大抵その建物内に専門のマネージャーがいる。 彼等は免許を持ったプロフェショナルである。 このライセンスも規定通りの過程を経なければ取得出来ない。

 このマネージメント費が相当高く付き、家賃収入があっても、それらを差し引くと、殆ど残らない。 将来の値上がりを待つとか、自分達の宿泊場所として使用するなら別だが、余り良い投資とはならないようである。

 この町で商売をしている人達は、何時もスクールホリデイを期待している。 繁華街でも普段はひっそりしていて、ホリデイになると急に活気づき、通りに人が溢れる。 特にクリスマス休暇は一年中で最も忙しい時期となる。 そのかわりクリスマスが近付くと、なにもかも物価が上昇する。 私の店でも値上がりを前にたくさんのドーナツ粉を仕入れた。

 宗教上の礼儀からか、二十五日のクリスマスデイはどこの店もクローズする。 私達はそれを知らず、いつものようにオープンしていたら変な目で見る人がいた。

 ここはリゾー卜なので、午後からオープンする店が出始め、その時から、どの店も大忙しとなる。 私の店の自動ドーナツ機もフル回転、ドーナツ粉のストックが瞬く間になくなった。 「しまった、もっと買い置きをすべきだった」と後悔したが、もう遅い。 しぶしぶ値上がり分を仕入れねばならなくなった。

 特に忙しい期間は年末から年始に掛けてで、それから徐々に下がり始める。 そして学校の始まる二月に入った途端、水をうったように静まり返る。 歩道を挟んだ向こう側にウォータースライド(水のスベリ台)があって、そこから聞こえた子供達の喚声も急にしなくなった。

          [日本食Photo_13の店]  日本とオーストラリア間でワーキングホリデイ制度が出来て間もない頃、日本人の若者が町の中にも現われるようになった。 これを契期にドーナツの販売は止めることにした。 そしてカレー、牛どん、うどんの三種類から、日本食の販売を始めたのである。

 店頭にカウンターを取り付けて椅子を置くと、ちょっと狭いが、なんとか八人が座れた。 大工仕事が好きなので、すべて自分でやり、又、原寸大の日本字を書き、それをカンバン屋に渡して模写させた。 そこには「日本食の店」と入れ、その下に英文で「世界で一番小さな日本レストラン」と書かせた。 それはもちろんシャレである。

日本から新婚さん達のツアーが、ちらほら来ていて、オーストラリアブームの幕間けが始まった。 

立地条件が良かったこと、町の中で唯一の日本食店だったことで大当り、新聞、婦人雑誌、ビジネス雑誌に私達夫婦は写真入りで紹介され、小さな有名店となった。 それにつれ売上げもどんどんと増えていったのである。

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2006年8月 7日 (月)

13 永住、そしてビジネス

[永住、そしてビジネス]

カナダ出国後、アメリカで数ヶ月滞在した。 しかし考えていたようなビジネスにはめぐり合えず、日本へ帰国した。 そしてすぐカナダとオーストラリア大使館に永住ビザの申請をした。 なんとしても海外へ出て、商売をしたかったからである。

 オーストラリア大使館の資料で、永住カテゴリーの中に、運良く私の前の職種が含まれていた。 とんとん拍子に申請が通り、ビザがおりてきた。 しばらくしてカナダ大使館からも通知があった。 永住ビザは一ヶ国しか取得出来ない。 英国圏ならどこも同じだと、私はオーストラリアに決めた。

 1981年11月、私は初めてオーストラリアヘ入国した。 シドニ-でしばらく生活してみようと思った。 カナダでは木造の家が多くカラフルできれいだった。 ここは古いレンガ造りの建物ばかり、薄暗くて殺風景、ちょうど日本の終戦後のような感じがし、おせじにも環境が良いとは云えなかった。

フェリ-乗り場の近くに、小さな木造のホテルがあり、しばらくそこに滞在した。 朝食と夕食が付いていたが、古く狭い部屋で長期滞在型の老人ばかりが住んでいた。 カナダとのイメージが余りにも掛離れていて、私は一週間目で日本へ帰りたくなった。 「しまった、カナダの方にすれば良かった」 今からでは遅い、もはや変更は出来ない。

 私は旅行に出ることにした。 シドニ-を起点にして、キャンベラ、メルボルン、北はブリスベン、ケアンズヘと向かった。 時間はたっぷりある、一番安上がりなバスを利用した。 日本を出る時、日本食店をやるつもりだったので、その場所探しでもあった。

豪州ドルが固定相場制から変動相場制になって間もない頃、少しずつ値下がりはしていたものの、1ドルが270円前後もした。 円換算すると不動産が非常に高く感じ、予算の都合上、小さな物件ばかりを探し回った。

 クィーンズランド州、ブリスベンの南、80キロメートルにサーファーズパラダイスというオーストラリア最大のリゾートがある。 その海岸近くの一等場所で売りに出していた小さなドーナツ店を見付けた。 通りには人が一杯居て活気に満ち溢れていた。 一目惚れで、その店の権利を買うことにした。

 オーストラリアでは、ビジネスの権利売りが非常に多い。 オフィスは別だが、設備をして店舗として入った場合、テナントは簡単にビジネスやリ-ス権を売ることが出来る。その価格は、営業成積、設備品の価値、家賃やリ-スの内容、例えば契約の長さや延長が可能かどうかにもよる。

 通常、新しいビルが建ち、店舗にテナントとして入る場合、日本でのような家主への保障金はいらない。 店内改装費、設備費は自分持ちだが、レントと経費だけを払えば良い。 そのかわり合法的な契約書を交わす。 この文書は、絶対的な力を持っていて、一担契約を結ぶと、営業成積が悪いからとて、その内容を変更、又キャンセルは出来ない。 営業は停止しても契約期限までは家賃を払い続けなければならない。 その事態が来る前にビジネスを売りに出す場合が多い。

 営業成積が良いのに売りに出す人はいない。 なにか問題があるから売りたいのである。 売り主は良い事だけを言って売ろうとする。 買手は問題点を、それと知りながらも、自分ならば旨くやれると思う。 それで必ず買手が付くのである。

 古い建物で家主が近い将来、建て替えをするつもりだと、リースの延長はしない。リース期間中に建物の取壊しとなれば、大金を投じてその保障をしなければならないからだ。

 このドーナツ店には二年間のリースが付いていた。 ソリシター(司法書士兼弁護士)を通じて、家主にリ-スの延長を求めたが二年後には、どうするか決めていないからと断わってきた。 この建物は木造三階建で築三十年程、二階と三階がモーテルになっていて合計30室ある。 一階はテナントが九店舗入っていて、道路を挟んで東側に海岸、南側は歩行者天国の道路に面している。 この店の左側がファーストフッド店、右にはモーテルヘの狭い入口とその憐は、アイスクリーム店になっていた。

 広さは10へーベで、どの店舗よりも小さかった。 ガラス張り陳列ケース、卓上自動ドーナツ機械、業務用中型ミキサー、ソフトドリンク用冷蔵庫、古い大きなハカリ、水道と流し台で、売値は二万ドル、日本金に換算すると、備品価値から見ても相当高い買物をしたことになる。 永住して数ヶ月、当時はそれが高いのか安いのか分らなかった。

「この建物は角地だ、新しいビルを建てるには建築基準法で5メーターずつ下げねばならぬ、土地が狭くなるので特別な建物でないと採算が合わない、隣の土地を合せての開発も考えられるが、今はその計画はない。 いずれにしても取壊しはずっと先になる」と親切に教えてくれる人がいた

新しくリースさえ取れれば買値で売れるだろう。 後は運におまかせである。 それよりも一刻も早く商売をしたかった。

 当時私は結婚して間もなかった。 外国生活に憧れていた妻は、小さいながら自分達の店、海外でビジネスを始めた喜び、将来への期待で胸が一杯だったに違いない。

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2006年8月 5日 (土)

11 あわや!退学?

服役中の人達が一年に何度かバスで行楽地までレクレーションに来ると云う話、又、殺人犯でも、クリスマスには休暇? を取らせて帰宅させる。 近所に住む被害者家族がそれを知って当局に抗議をしたが取合わなかったそうだ。 人権優先なのか、余りにも寛大すぎると思えてならない。

「マリワナは本当に有害で、その使用を将来も禁止すべきか? では、タバコの場合はどうすべきか?」等々、麻薬問題にも触れ、意見を問うた。

 オーストラリアでは麻薬事件が多い。 周囲が海に囲まれ、監視の目が届かない。 ヘロインの密輸は半端な量ではなく百キロ単位で入ってくる。 1998年にも陸上げ寸前に摘発された。 政府は当時、あらゆる分野で予算のカットをしていた。 密輸の監視にも予算の削減をした。 それで密輸が増え始め、これではいかんと気が付いた矢先だった。 ずっと前の事件では、警察幹部も関与していたと言うからどうしようもない。

この国の法律では密売人は罰せられるが使用者は無罪である。 彼等に治療し再起更正をさせる施設があるのかどうかは知らないが野放し状態となっている。

16才の少女が、ヘロインの打ち過ぎで路上にて死亡、とのテレビニュース、これによる1997年度の死亡者は7百人を突破した。 患者の年齢層も下に広がり15才前後となってきている。 彼等は同じ注射針で回し打ちをするから、エイズ感染予防の為にと、政府は無料で注射器を配った。 又、打つ場所を提供したある宗教の教会も出現した。 これを知った、毎日インシュリン注射の必要な糖尿病患者は、自分達にもと抗議をしたが聞き入れて貰えなかった。 なにがどうなっているのか、私にもさっぱり分らない。

[あわや退学?]

 欧米諸国では、自分をいかに主張して、高く売込み、良い給料とポジションを得るか、その為には物怖じせず、人前である程度話が出来ないといけない。 そのトレーニングだったのである。 この課目の終わりに一人あたり、二十分間のスピーチがあるから、その原稿を書くようにと云われた。

 夫君ゲリー教官からは、今週終わりにテストをすると伝えられた。 前回のテスト同様、さほど難しい問題は出ないだろうと一切勉強しなかった。 思ったとおり、当日はテキストを見てもよいことになった。 ところが、こんなテスト程難しい。 すべて書入れ方式で質問がかなり複雑であった。 テキストのどこに書かれてあるのか見付けるのが大変で日本語ならばともかく、知らない単語が一杯で、時間がどんどん過ぎて行った。

 他のクラスメイツは書き終えて教室から出ていき、とうとう私一人になってしまった。 もう時間がない、目がくらくらしパニック状態となった。 出来ていないのに提出せねばならない。 もう駄目だ欠点に違いない。

 解答合せをすることになり、テスト用紙を返して貰った。 でも点数が書かれていなかった。 ゲリー教官が、私の側へやってきて、心配そうな顔で「どうしたのか?」と尋ねた。 「英語力の不足です」と私は答えた。 「このキャンパスにスチューゼントサービスセンターがあるから、そこへ行って相談するように」と彼は言った。 さあ大変なことになった。 もしかしたら英語力不足で退学になるかも知れない。

 ランチタイム、その事務所へ行ってカウンセリングを受けた。 外国からのスチューゼントは、英語力のテストがあって、それに合格しないと入学出来ないことになっている。ところが私の場合、ここに長く住んでいるので、義務教育終了のオーストラリア人と同様に扱われテストもなく、手続きも非常に簡単であった。

 担当員は、「この学校には英語レッスンのクラスはなく、別校のTAFEで勉強するように」と担当者を紹介し、面接日を決めた。 いよいよ面倒なことになってきた。 英語クラスヘ通学するとなれば当然ここを辞めねばならない。 「困ったな、しまった、英語力不足なんて言ったのがいけなかったのだ」確かに英語力の不足はある。 でもテストさえ良ければ、こんな事にはならなかった。 もっと勉強していれば合格点が取れたのだ。後悔してもどうにもならない。 何か良い方法を考え、この場を切抜けねばならない。 ゲリー教官にはオフィスでの面接の件を報告したが、非常に憂欝な気分だった。

 そもそも私が、この学校へ入学したのは、転職の為であった。 この町で十三年間、日本レストランを営業していたが、その建物の取壊しを機に他の職業へと転向する為だった。 五十才を過ぎての転職は難しいことは分っている。 しかしレストラン業は、もうやりたくなかった。 今度は自宅が使え、しかも一人で出来る仕事として、この分野を選んだのだ。 若い人と同じようにはいかないし、英語力でも無理があると最初から分っていた。 それで一番得意の学科、電気を選んだのである。 もしテストに合格しなくても、このコ-スが終るまでは通学するつもりだった。 オーストラリアに長く住んでいるのに、まだこの国の学校の内情は知らない。 どんな先生で、どんな生徒が居るのかと興味もあった。

 ずっと前、中学校から入学してみようと思ったことがあった。 しかし、余りにも年齢差があり、周囲に迷惑を掛けるといけないと思ってやめた。

 次の日、英語クラスの担当員に電話をしてインタビューをキャンセルした。 「チェンジマイマインド」(気が変わった)と告げたら簡単に了解され、改めてこの言葉の便利さを感じた。 さてゲリー教官には、どのように伝えるか、これが一番難題だった。

「そうだ、本当のことを言えばよい」彼には、「まもなく、私の得意な実習の課目が始まります。 英語力の不足はクラスメイツにヘルプしてもらってクリアーします。 このコースはなにが何でも最後まで勉強したいのです。 これが終了したら英語クラスを受講します」  そう言うと彼は、「オーケーノープロブレム」と言って簡単に了承してくれた。

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2006年8月 4日 (金)

10 続、授業内容

 研修生の中に、四人のフィリピン人がいた。 同じ東洋系、顔形が似ているので親近感がある。 若い三人は20才前後、一番年上が35才で、名はマルコと言った。

 彼はフレンドリーに話し掛けてきた。「貴方は日本人か?」 私は中国人に見られることが多い。 別にどちらでもよいのだが、ずばり日本人と言ってくれたので嬉しかった。

「Sと言う日本人歌手を知っているか?」S歌手と言えば、ホテル経営でも、日本人なら知らない人はいない程の有名人である。 「昔、彼と一緒に仕事をし、友人だ」マルコが突然、言出したので驚いた。 彼は十年前まで香港で歌手をしていたそうだ。 その時S氏と一緒に仕事をしたことがあって、それ以来の友人だと言う。 彼はS氏の家族内容まで詳しく述べ、まんだら嘘でもなさそうだが、私には余り興味がなかった。

 マルコはゴルフが好きで、近々一緒にプレイしようと話していると、担当教官がエレベーターから出てきた。 休憩中、その前で立ち話をし、いつの間にか、時間がとっくに過ぎていた。 ふと我に返り、教官の後ろに付いて教室へ戻った。

 第三週目から、「オキュペイショナル・ヘルス・アンド・セイフティ」(職場での安全と健康)それと、「コミュニケイションズ・アンド・インダストリアル・リレイション」(対話と労使間係)の課目が、毎日半日ずつの授業となった。                     「ヘルス・アンド・セイフティ」の教官はニ-ジーランド出身で54才、小太りでいつもパイプタバコを、ふかしていた。 ゴルフが好きでハンディは18、忙しくて月に一度のプレイ、でもハンディはしっかりキープしていると自慢した。 「コミュニケイション」の教官は二人、それが夫婦だから珍しい。 御主人の名はゲリー、奥さんはベティ、二人の年齢は共に38才前後、ベティは、きれいな人でファッショナブル、毎日洋服を着替えてさっそうとクラスヘやって来た。

 ゲリーのクラスでは労使関係でトラブルが起きた場合、どこへ申したてをし、どのようなプロセスで解決されていくかを、毎回ビデオを見せながら説明した。 そして、それについての感想を聞いた。 この国に国民所得法が制定され、年齢、職種、勤務条件によって給料の額が決められている。 フルタイム、パートタイム、カジュアル、契約制等があり、それぞれ労働条件も異なっている。

 フルタイムでは、週30時間から40時間、土曜、日曜、祝日はもとより年に一回、四週間のホリデイを与え、その期間の給料は普段の十七パーセントの割増し支給となっていて、年金も雇用者側が負担することになっている。 よほど業積の良い会社でないとフルタイムは雇えない。(1986年)

 パートタイムは、一週間の勤務時間が決められていて、フルタイムよりも条件は良くない。 そのかわり時給が高く、日曜、祝日に働くと二倍以上の支給額となっている。

 ハンバーガー等、ファーストフッドチェーン店で15、16才のティーンエイジャーがたくさん働いているが、彼等のほとんどはカジュアル勤務である。 年が若いので時給が安くて時間数も短い、雇用主の責任も軽いので、人手が要る営業時間の長いファーストフッド店では必要な人材である。

 毎年法律が改正され、時給率も変わるので、雇用主は常に新情報を得なければならない。 勤務条件、給料等で雇用主と従業員がもめる、そんな場合、インダストリアル・トライアルビューロー(産業界法廷)と言う国の機関に調停を依頼する。 この法廷は絶対的な権力を持っていて、裁決すると双方その命令に従わざるを得ない。

 ベティ夫人のクラスでは、毎回授業の始めに一分間のスピーチをさせた。 新聞、テレビで、今問題となっている話題を取上げ、その感想を述べさせるのである。

「キャシーフリーマンは、アトランタオリンピックで優勝したら、アポリジニーの旗を持って表彰台へ上がるだろうか?」

 彼女はオーストラリア原住民アポリジニ-である。 カナダでコモンウェールス(英連邦)スポーツ大会が開かれた時、彼女は400メートル陸上競技で優勝し、その時、オーストラリアとアポリジニーの二つの旗を持って競技会場を回り大きな反響を呼んだ。 カナダでのインディアン問題と同様、オーストラリアでも原住民とは土地問題等でトラブルが続いている。

 私は、「彼女は旗を持ち込まないだろう」と答えた。 英連邦で植民地だった各国原住民達は英国の人々にいつも不満を持ち続けている。 その抗議の現われであって、オリンピックのように世界中が集まる国際競技では、それをしても無意味なのである。

 後日、彼女はアトランタオリンピックの同競技で銀メダルを取ったが、アポリジニ-の旗は持たなかった。

「マーチンブライアントには死刑が適当か?」 彼は、1996519日、タスマニアの観光地でライフル銃を乱射して36名を虐殺した。 この国では死刑が廃止されている。 極刑がないと強悪犯が多くなる。 オーストラリアの刑務所はどこも満杯状態だと聞いている。

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2006年8月 3日 (木)

9 授業内容

ライセンス保持者でないと、電気に一切触れてはならない。 天井にある照明器具の電球の取替え以外、たとえば、パワーポイント(コンセント)の取付けや取換え、又はケーブルやプラグの交換、電気コンロやトースター等、家電製品のパーツの取替え、修理はしてはならないのである。 しかしスーパーマーケットで、各種の部品、明らかに電気工事を必要とするパーツ類が売られている。 それらは一体誰が買って取り付けるのか? 謎である。 工事屋さん達は、通常業者用の問屋さんから買っているからだ。

 一般にラジオ、テレビ、コンピューターのような弱電製品の修理にはライセンスが要らない。 しかし交流の240ボルトを通電するから、ディストリクト(区分)ライセンスを取得しなければならない。 このライセンスを取るには、三年以上の経験と、その会社の推薦がいる。 それに、この免許は範囲が限られていて、弱電以外の電気器具類の修理は出来ない。 年々法律が改正され、色々と複雑で学校の先生でも意見がまちまちであり、残念ながら、私にもそれ以上のことは分らない。

 この電気科コースは、アプレンティスシップの前の段階で、一年間の授業を終えると、契約雇用主は、その人の能力、習得技術を見て判断し年数の削減をする。 半年から一年を四年間から差し引いた残りが契約期間となる。 そして、この間の給料は国民所得法に基づき支払われる。 ちなみに1998年の低所得者で週給が税込み350ドル、アプレンティスシップ初年度では160ドル程度である。年々少しずつ昇給はするが、基本給が安いので上がっても、たいした額にはならない。 それで大抵、若い人達に限られてくる。 家賃の要らない親の家で暮らすとか、シェアーメイトを見付けて雑居するとかである。

[授業内容]

 TAFEカレッジの授業は、最初の二週間は、一般教養と電気の基礎知識の授業であった。 授業が始まる前、全員に新品の文具が支給された。 網糸の透明プラスチック製の大きな筆入れの中に、HBのエンピツ三本、赤と黒のボールペン、マジックインク、三十センチサシ、消しゴム、百枚入りバインド製ノートブック、又、コ-スの終るまでの貸与として工業用カシオ電車、それから後日、技術実技が始まる前に、サイズに合せて新品のツナギ作業服と安全靴も支給された。 これで、一年間の授業料は534ドル、その中にすべてが含まれていた。 私の場合、無収入だったので、さらに割引され、実際に支払ったのは155ドルだった。 全く、至れり尽くせりの感がした。

 二週目の終わりに、テストがあった。入学時のような能力テストで、移項と三角関数の問題、出来たので答案用紙を持っていくと、すぐに採点してくれた。これが何と全部正解、教官から、「ウエルダン」と誉めて貰った。私自身も信じられなかった。四十年前に中学校で習ったが、このクラスで復習したことで、甦ってきたのである。

 想えば、当時の担任は数学の教師で非常に怖かった。 小柄で頭でっかち、険しい目をした熱血先生、授業中よそみなどしているとチョークが飛んでくる。 机の外に足を投出していると蹴り飛ばされた。 悪ガキ生徒でも、この先生には一目を置いていた。 毎日ピリピリしながら勉強した、その時の記憶が今でも鮮明に思い出される。

 私は年を取っているからと、もう諦めてはいたが、まだまだ大丈夫と自信を深めた。

[クラスメイツ]

 クラスメイツの中にマークという36才の研修生がいた。 彼はヘアードレッサーと散髪屋のライセンスを持っている。 数年前、シドニ-のTAFEカレッジで短期間だったが、ヘアードレッサーの講師として教えたこともあった。 他に数種のサティフィケイト(終了証書)を持っていて、それらを私に見せていた。 日本語を少し学んだこともあり、片言まじりで話した。性格が温和で人当りが良く、私の良い話し相手となった。

 彼は電子科を専攻していた。 二つも立派なライセンスを持っているのに、どうして、そのコースを受講するのか分らない。

 私はテストを終え外にいると、しばらくして彼も出て来た。 彼は中学校で三角関数は習わなかったと言う。 私は日本でこのように習ったと図を書いて説明した。 サインは頭文字のS、コサインはC、タンゼントはTの、それぞれ小文字の綴り字を、90度の角度を右下に置き直角三角形を描き、左の角度を基点にして書込む。日本では分数を書く場合分母を先に描いて棒線を入れ、その上に分子を書くから、これが旨くいく。でもこちらでは、先に分子を書き棒線をいれ、ディバイド(割り算)と言いながら分母を書くので、これが適用出来ない。側にいたもう一人のクラスメイツが、それを熱心に聞いて非常に関心を持った。

「ところでマーク、テストの結果は?」「エ-、まだ終えてないのに、どうして外へ出て来たの」「教官がクラスルームからいなくなったので自分も出て来た」

 教室に戻ると、まだ数人がテストに取り組み中であった。 彼らは顔を上げこちらを見てニコニコ笑った。このテスト、さほど重要なものではなかったのである。

 午前十時前後になると、研修生の方から、スモーカー、スモーカーと聞えてくる。 スモーカーとは、タバコを吸う時間、つまり休憩時間のことである。 教官も、その時間を常に気にし、声の掛かる前に言い出したりする。

 授業中、研修生が突然席を立って教室から出て行く。断わりもしないで、一体どこへ行くのだろうかと不思議に思っていた。大切な熱の入った講義中でも、休憩時間の前後でもそれをする。しばらくして、彼等は便所へ行っていることが分った。教官の方も別に気にしていないようだが、一生懸命教えている最中、調子が狂うことに間違いはない。

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2006年8月 2日 (水)

8 TAFEカレッジ

     Photo_11      [旅立ち]  ジョニ-の友人がアルバータ州のカルガリーに住んでいる。 数ヶ月前、彼がジョニ-の家を訪問した時、私は彼に会った。 私がカナディアンロッキーを観光したいと言ったら、ジョニーは、彼に連絡を取ってくれた。 カルガリーにカナディアンロッキー観光の出発点があったからである。

 当日、彼は私を空港まで出迎えに来てくれた。 そして、Photo_23カルガリータワーと町を案内してくれた。 タワーから、はるか彼方、赤茶けた砂漠地帯の中に石油コンビナー卜群が見えた。 ここは石油の町だったのだ。 カナダにこれほど大きな石油生産地があるとは知らなかった。 ここはどの州よりもガソリンが安いと聞く。

 彼はこの町で会計事務所をやっていた。 事務所に立寄って電話をし、ガールフレンドを呼んで、私を夕食に招待してくれた。 そして、その夜、彼の自宅に泊めて貰った。(写真はカルガリーのカップル、下はカナデアンロッキー、コロンビア氷河)

 気さくで、おおらかな彼は、自分の使っているウォーターベッドを私に提供し、自身はリビングルームの長椅子で寝た。 このような文化の違いもあったのかと驚いた。 二度と合うことがないかも知れない私に、何も求めない本当の親切である。 彼には大変世話になった。 何時の日か、必ず再会して、その御礼をしたい。 そしてジョニ-にも感謝しなければならない。彼の顔でそうしてくれたのである。   

ジョニー夫妻がギリシャヘ行くことに決まったのは、私がカナディアンロッキー観光から帰って間もなくだった。 英語教師として一年間の予定である。 自宅は他人に貸すが、私のホームステイはそのまま続けても良いとのことだった。 でも私はアパートを借りる事にした。 この国での滞在もあと数ヶ月となり、自由奔放、気ままな生活がしたかったからである。 同時に自動車も買った。 中古のフォード、ピント2ドアー、色は真紅だった。 このモデルはガソリンタンクに欠陥があって、追突されると炎上する、大変危険な車だと分ったのは、ずっと後からだった。

 そして、十ヶ月間のカナダ滞在を終え、途中、車が数々のトラブルを起こしながらも、アメリカ西海岸3000キロのドライブ旅行に出た。アメリカなら良いビジネスが見付かるかも知れない? と期待しつつ。

第二章

Tafe__1[TAFEカレッジ]

 TAFEの授業は、午前八時から始まる。 十時前に二十分間のコーヒーブレイクがあって、その後、十二時のランチタイムまで続き、午後は十二時四十五分から始まる。 三時前に休憩をとり、次は四時半まで、そして下校となる。 校内に開始や終了のべルが鳴って合図される訳でなく担当教官が判断して、それを決める。 原則として、ランチタイム意外はキャンパスより外出は出来ない。 月曜から木曜まで、毎日九時間近くも校内にいることになり、このコースは、かなりハードなスケジュールであった。(写真はTAFE校舎)

 TAFEとはテクニカル・アンド・ファーザー・エジュケイションの頭文字を合せたもので、通常この前にGClTが付き訳すと、ゴールドコースト技術促進教育専門学校になる。 日本での職業訓練校と言える。 ゴールドコーストには五ヶ所のキャンパスがあり、それぞれ教育内容が異なっている。 私が通学しているアッシュモア・キャンパスは技術系の教育養成が目的でいろんな設備が整っている。 服飾デザインやファションモデル、旅行業務、接客サービス業務、調理人、大工、左官、パン職人、ケーキ職人、コンピューター、電気、電子、機械、溶接、車の整備、測量、建築士の養成等、その数は五十種類で、各々立派な実習場を持っている。

 コースの期間は短いので一ヶ月間、フルタイムの長い方で三年、パートタイムでは六年がある。 一般大学へ行けず、もっと勉強したい人、技術を身に付け良い職場へ就職したい人、又、転職を希望する人達の技術の習得や養成の為の専門学校である。 職種にもよるが、コースは初級から上級まであって、研修生の年齢層もかなり広い。

 私は電気工学を専攻した。 ゴールドコーストの繁華街で十三年間日本レストランをやった。 事情があって、次はレストラン業を断念した。 食べ物商売から電気関係の仕事へと、まったく違った職場へ180度の転換である。 子供の頃から電気関係には興味があり、少し経験もあった。 日本であるような電気工事士の資格を取り、器具の修理とか屋内配線の自営業をして、残された人生を、この仕事で全うしたいと考えた。

[アプレンティスシップ]

 資格の取得が簡単に出来るだろうと電気科のコースを受講した。 ところが勉強を始めると、その規制が厳しく複雑で、そう簡単にライセンスが取れないことが分った。

 オーストラリアは英国の制度をそのまま取り入れていて、大抵の職業にライセンスが必要で、それを取得するのに、最低でも四年間が必要なのである。

 電気関係の系統には大きく別けて六種類あり、一般的な電気工事士になる場合、そのライセンスを得るには、条件の整った雇用主と四年間の契約を結ぶ。 これをアプレンティスシップ(年季奉公)と言う。 この期間、雇用主は、この人に技術のトレーニングをし、通常勤務時間中、週に数日は通学させ電気理論を学ばせることになっている。

 もし雇用主に不都合な事が起き、この契約を解消したいと思っても、簡単には出来ない。 その場合、別の雇用主を見付けてやり、契約を移転し継続させねばならない。

 そのかわり、この期間中は、通常の半分以下の給料でこの人を使えるのである。でも、四年間の契約期間が長すぎ、責任も重い、雇用主にとってはリスクが多すぎるのだ。 しかし、この契約を交わさないと、その人は何十年、その仕事に従事して経験を積んでもライセンスの取得に繋がっていかないのである。

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2006年8月 1日 (火)

7 英語授業

      Photo_9     [英語授業]   ある日の授業で、教師が新聞の切り抜きを持ってきた。そして、その感想を問うた。 それには「フランス語を勉強する場合、クベックヘ行って学ぶべきか? それとも本場フランスヘ行くべきか? クベックのフランス語は余りにもアクセントが強すぎる」と、書かれてあった。 クベック州から来たスチューデント達は非常に怒った。 彼らのフランス語をバカにしていると思ったのである。 そして教師に食って掛かり、「どうしてこんな記事を教材に使うのか」と、激論になった。 もうこうなったら英語の授業どころではない。 日本人生徒はあっけに取られ、それを見守った。 又、このような記事も教材となった。 カナダでは、インディアンの所有と主張する不毛の湿地帯から鉱物資源がたくさん出る。 国と州とインディアンの人々が三つ巴になって、利害関係を討論したが、らちがあかない。 そこで国家元首である英国の女王陛下に直訴したそうだ。 陛下も困りはて「貴方の国は立派に独立しているのだから、お互い良く相談して決めなさい」と答えたそうである。 ある秋の日、私は友人に連れられてマツタケ狩りをした。 昔、ロギィング(木の伐採)をした細い山道を通り、奥深く入って行った。 途中、ある村を通り抜けたら、突然、一台の車が尾行してきた。 追突ぎりぎりまで接近し無言のままである。 車の中にインデイアンらしき人が数人乗っていた。 彼らは、途中で尾行を止めたが、何とも言えない不気味さを感じた。 毎年、この時期になると、日本人の車が、この道路を良く通り、その目的が彼等にも分っていて、「嫌がらせだ」と友人は言った。 [町の生活と情報]  ジョニ-は、たびたび私を釣りに誘った。 バンクーバー市の北にホーシュベイというフェリー港がある。 前にビクトリア市へはここから乗船して西へ向かった。 今度は北へ行きラングデール港で車に乗り替え、さらに北上、一時間ほど走るとアールスコープに到着する。 ここはリアス式海岸がかなり内陸部まで入り込み水深が非常に深い。 そこにヨットハーバーがあってボー卜が借りられ、活エサのニシンも買える。 ボートで少し走ると流れの速い水域にでる。 このエサでタラの一種、ガシPhoto_10ラに似た魚が良く釣れる。 (写真左)  大きいので60センチ、時々、一メートル前後のサメが食付くから要注意、流れが速く渦を巻いている、それにサメ、小さなボー卜だ、転覆したら命はない。後日、一人で釣りをしていた日本人青年が、ここで行方不明となった。 彼は酒を飲みながらだったと言う。 誤って海に落ちたらしい、ボートだけが漂流していたそうだ。 死体はまだ上がっていないとロ-カル紙が伝えていた。私はバンクーバーに住む知人宅とか日本人会を訪問し、ビジネスに就いての情報を収集した。 それによると、ここで商売を始めることは、日本で起業するより、ずっと難しい事が分ってきた。 日本円が強くなって、ウエルシー(裕福)な永住者が増えている。 彼らはここへ来るとすぐにビジネスを始めるが、同種の商売が多く、お互いに過当競争になっているという。 都市でも、カナダは人工密度が少ないのが原因だと言った。 アメリカ村からの人々は一体どんな住らしをしているのだろうか。 昔は移住すると漁師になったり、キャナリー(缶詰工場)へ勤める人が多かったという。 出身地が海の町だったからかも知れない。 最近では、親戚とか知人が商売をしていて、職業の幅も広く、コネがあるから比較的簡単に仕事が見付けられるそうだ。 日本人は良く働き、すぐに自宅が持てる。 彼等は環境の良い、広い庭付き住宅に住んでいて、出身地の村へ帰って生活するよりも、ずっと居心地が良さそうだ。  ここに住む日本人は誰も親切で人情味があった。 今はもう忘れ去られた古い時代の日本の良さが、ここではまだ脈々と生き続けているような気がした。昔の昔、日本にいた頃に、私の父を知っていたと言う人に会った。 亡き父が大八車で、彼等の村まで飛脚(運送業)をしていた、半世紀以上も前の話である。 世間は本当に狭い、悪い事は出来ないものである。 私はビジネスに拘らず、ここに永住し、彼らとお付合いをして、一生を送りたい気持ちになった。ビザ延長の為には語学研修校の領収書がいった。 次の授業の支払い書を持って移民局へ行くと滞在ビザ延長のハンコを押してくれた。 まるでお金で滞在を買っているようだった。 失業者が多かったせいか、私達のような生徒は一切アルバイトをしてはいけなかった。 授業料は決して安くない、その内容も英語力向上とならないと感じ、私は三期目でやめることにした。 この国で事業を始めるには、ビザ問題が一番重要であった。 それを得るには、良い商売を見付けるより難しいことが分った。 残念ながら、私には呼寄せをしてくれる親戚はいない。 でも日本へ帰ったら、私の職業の方からビザの申請をしてみようと思った。

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2006年7月31日 (月)

6 カナダ人の結婚式

     Photo_17     [カナダ人の結婚式]

ベラクーラは、古くから、たくさんのカナダインディアンが住んでいる。 周囲に高い岩山がそびえ、氷河が見える。 一つ一つの山頂にインディアンの名が付けられていた。「ケンジ、あの山に登頂したら、お前の名を付けてやろう、まだPhoto_26 登った者がいないからな」と一番高い山を指差した。 「ロッククライミングが好きになるまで、待ってくれ、その時が来たら、知らせるから」と言ったら、夫婦で大声を出して笑った。(写真左はベラクーラの山々)

ジョニーの姉さん家族の家で、今夜から、三人で泊まることになっている。 御主人は建築設計士、自宅はまだ建築中であった。 外観は出来ているが内装は約60%、住みながらで暇まかせ、しかも彼一人の作業だ、「何時になったら、完成するのか、全く分らない」と笑っていたPhoto_25

 山小屋風で三ベッドルーム、三方ガラス窓の大きなリビングルーム、回りが棚になって、その上に古代石器類が所狭しとばかり並べられていた。 これらは、自宅の屋敷から出てきたそうで、この地区は大昔、インディアンの集落場所だったそうだ。

私達三人は、工事中の部屋の廊下に寝袋を敷いて寝ることになった。 小学生の娘が二人いて、部屋を一つ専有している。 ほんの数日だ、その部屋を開けて、はるばるやって来た客人に提供するなんて事はしないのである。 これもやはり文化の遠いだろう。 こちらも気をPhoto_8使わないで済むから助かるが。 

結婚式は翌日の午後五時から始まった。 二人は教会で式を済ますと、リボンで飾られたキャデラックのオープンカーに乗り込み、パーティ会場へと向かった。 会場は、町の公民館で、そこから一キロメートル程、教会参列者は全員歩いた。 中に入ると目を見張るばかり、天井と璧一面に色とりどりの飾り付けがされていた。 すでに百人はPhoto_7来ていた。 長いテーブルが数列並べられ、白布が掛けられて、プレゼントが山と積まれ、酒、料理、果物類がどっさり置かれていた。

 前に、日本で友人からカナダ人の盛大な結婚式の話を聞いたことがあった。 それを目の前にした。 私は大感激をすると共に、その雰囲気に解け込み、心ゆくまでたんのうしたことは言うまでもない。(写真は教会での結婚式風景と新郎新婦)

 翌日、ジョニ―の実家を訪れた。 丸太を組み合わせて作られた家は、映画で見る開拓当時の姿そのままであった。 三日前、テトラレイクまでカヌーを持って来て、一緒に釣りをした弟は両親と、この家に住んでいる。 彼の部屋へ入った。 壁には数丁のライフル銃のコレクション、又、仕留めた動物の頭部剥製も取り付けられていた。 彼は土木工事業のかたわら、馬で雪深い山道を野宿しながら、一週間に渡って狩猟の旅に出ると言う、足跡を調べながら獲物を追跡している、そんな映画のシーンを、私は思い出した。

 この町には、今でもたくさんのインディアンが住んでいる。カナダ政府の建てたプレハブの住宅地域に集まり生活をしている。 車の窓越しに、その家々を見たが非常に貧しそうだった。 そう言えば、昨日、教会にもパーティ会場にも、それらしき人々は、誰一人、来ていなかった。

 ここは又、昔からサケ漁で有名である。 バンクーバー市から船でリアス式海岸を経て、この町へ買い付けにやってくる。 地元インディアンには、サケ漁が出来る特別のライセンスが与えられているのだ。 ジョニ-と私は、近くを流れる川の、釣り許可証を買った。 小さなボートで川に出、そして岸からも釣ってみた。 でも時